信長公記・3巻その2「姉川の合戦」
画像:落合芳幾・画「六角義賢」の錦絵(東京都立図書館)
千草峠の刺客
1570年6月22日(元亀元年)、浅井長政は鯰江城(滋賀県東近江市)で軍を整え、さらに市原(永源寺町市)で一揆を起こさせて岐阜城へ帰還する信長の進行を邪魔した。
信長は近江路(滋賀県から福井県越前市に通じる街道)からの帰還を断念することになり、近江の蒲生賢秀、布施藤九郎、菅六左衛門の力を借りて経路を近江から伊勢へと抜ける千草越えへ変更した。
途中、六角義賢に雇われた杉谷善住坊という刺客が鉄砲を持って千草山中の脇道に潜んでおり、山道を通過する織田軍を待ち伏せしていた。
やがて杉谷の前を織田軍が通り、信長が23~25メートルほどの距離まで近づくと杉谷は鉄砲を放った。しかし、玉は信長の体をかすめていき、被弾することはなかった。
落窪の合戦
7月6日、六角義賢と、その息子は近江の南で一揆を起こし、軍勢を整えて野洲川(滋賀県を流れる淀川水系の一級河川)の川岸にまで進軍した。
信長は柴田勝家、佐久間信盛に応戦するよう指示し、柴田郡と佐久間軍は野洲川の北岸を抜けて落窪(滋賀県野洲市)で六角軍と戦った。織田軍の圧勝で、六角軍の三雲定持をはじめ伊賀や甲賀の侍780余りを討ち取った。
浅井攻め
画像:浅井長政の肖像(長浜城歴史博物館)
越前(福井)の朝倉家が後ろ盾につく浅井長政は、長比と苅安(どちらも滋賀県米原市)に砦を構えていた。
信長は近江の豪族・堀秀村と樋口直房を味方につけ、彼らに調略を任せて砦の無力化を計画した。そして、7月21日、信長は浅井長政の討伐を掲げ大軍を率いて岐阜城を出発し、まずは長比と苅安の切り崩しに取り掛かった。
織田の大軍と堀の裏切りを知った長比と苅安を守る浅井の兵らは退散し、信長は長比の砦に2日間滞在した。23日、信長は浅井家の本拠地である小谷城まで攻め寄せた。
織田軍の森可成、坂井政尚、斎藤新五、市橋長利、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破光治、丸毛長照は小谷城の南に位置する雲雀山(滋賀県長浜市湖北)へ登り、麓の村を焼き払った。
信長は軍を引き連れて虎御前山(長浜市湖北)に陣を構え、柴田勝家、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)、丹羽長秀、佐久間信盛、蜂屋頼隆などに近隣の村や町に火を放たせた。
24日、小谷城を目前にした信長は軍の整備を兼ね、籠城戦ではなく野戦に持ち込むために織田の兵を後退させた。鉄砲500挺と弓矢隊30余り配置し、簗田広正、中条将監(中条家忠)、佐々成政の3名を指揮官とした。
やがて、織田軍の後退に気づいた浅井の足軽隊が攻め寄せてきた。簗田広正が敵勢を引きつけて応戦し、激しく打ち合って簗田軍の太田孫左衛門が敵の首を挙げて信長から褒賞を与えられた。
佐々成政は八相山の矢合神社(滋賀県長浜市)の前で敵に捕まるという事件が起こったが、無事に解決して敵兵の制圧に成功した。中条将監は八相山の麓にある橋で敵と衝突し、負傷してしまった。
また、中条又兵衛も橋で敵と交戦し、橋から落ちたが又兵衛は橋の下でも果敢に戦って敵の首を挙げた。一方、信長は八島(滋賀県長浜市)に陣を構えていた。
小谷城に近接する横山城(長浜市石田町)には浅井軍の高坂、三田村、野村などが立て籠もっていた。7月26日に織田軍が横山城の四方を囲み、信長は龍ヶ鼻(長浜市東上坂町)に陣を移して小谷城を監視した。
姉川の合戦
画像:姉川古戦場にある案内板
そのような中、越前より朝倉景健(朝倉景隆の息子)が率いる8000の兵が長政の援軍として到着し、小谷城の東に位置する大依山(長浜市西浅井)に陣を構えた。
援軍の到着を知った長政は軍を率いて小谷城から出陣し、朝倉軍と合流した。これにより敵兵は浅井軍5000と朝倉の援軍8000が加わり1万3000余りとなった。
7月29日の早朝、浅井・朝倉の連合軍は大依山から出陣。28日、両軍は二手にわかれて姉川(長浜市姉川河原 )の手前の野村口と三田村に移動し、合戦に備えて戦闘準備を整えていた。
織田軍は7月26日に三河(愛知県の東部)の徳川家康が合流し、三田村の朝倉軍には徳川軍が、野村口の浅井軍には織田軍の武将らと稲葉良通、安藤守就、氏家直元の美濃三人衆が向かった。
こうして29日の朝、浅井・朝倉の連合軍と織田・徳川の連合軍が姉川で激突するのであった。両軍とも互いに奮戦し、戦場には黒煙と土埃が舞い、刀や槍がぶつかり合う音が至る所で鳴っていた。
3時間(または5~6時間)に及ぶ激戦の末、織田・徳川の連合軍が敵軍を切り崩して勝利した。(※信長公記には合戦の内容について詳しく記されていない)
浅井軍は朝倉の家臣・真柄直隆が徳川軍の青木一重に討ち取られ、また、浅井の家臣・遠藤直経も織田軍の竹中重矩に討ち取られ、ほかにも前波新八や黒坂備中、浅井雅楽助など多くの勇将を失った。
織田・徳川の連合軍が挙げた首は1100余りであった。織田軍は姉川から小谷(5.5キロメートルほどの距離)に向け退却する浅井軍を追いかけ、小谷の山の麓に火を放った。
しかし、小谷城(長浜市湖北町)は小谷山の山頂に位置するため、城攻めが容易でないと判断した信長は追撃を中止し、横山城(長浜市石田町)への攻撃に切り替えた。
信長は横山城攻めの指揮を木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に任せ、8月2日に佐和山城(滋賀県彦根市)へと向かい、籠城する磯野員昌の討伐を開始した。
城を鹿垣(枝のついた木や竹で作った垣や柵)で囲み、城の東にあった百々屋敷を利用して砦を築いて丹羽長秀を配置し、南には水野信元、北に市橋長利、西の彦根山には河尻秀隆が陣を構えた。
そして、四方より攻撃が開始され、信長は8月7日(近年の調べでは8月5日とみられる)に少数の兵を連れて京都へ行き、足利義昭に勝利の報告を果たした。京都に1日ほど滞在したのち、9日に岐阜城へ帰還した。