信長公記・5巻その1 「三好義継の反乱」
画像:二条殿跡
木戸城と田中城の攻囲
1972年4月17日(元亀3年3月5日)、信長は近江(滋賀県)に進軍して赤坂山(滋賀県高島市と福井県三方郡美浜町の境界に位置)で陣を構え、18日に横山城(滋賀県長浜市堀部)へと進軍した。
なお、横山城は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が信長から与えられた城で、守備していた。
19日、信長は小谷城(長浜市湖北町)と山本山(長浜市湖北町と高月町にまたがる山)の中間に陣を構え、木之本と余呉湖(いずれも長浜市)の方面に兵を向かわせて火を放った。
そして21日、信長は難なく横山城に入り、翌日には常楽寺(滋賀県湖南市)で宿泊した。
23日、志賀(滋賀県滋賀郡志賀町)に進軍して和邇(滋賀県大津市和邇)に陣を構え、木戸城(滋賀県大津市)と田中城(滋賀県高島市)を囲んだ。
周囲に砦を築き、明智光秀、丹羽長秀、中川重政を配置させた。その後、信長は木戸城と田中城の攻囲を明智光秀に任せ、4月24日に京都へ入り、妙覚寺(京都市上京区)に泊まった。
京都の屋敷
なお、信長は頻繁に京都へ足を運んでいたが、別宅を構えてはいなかった。しかし、ついに別宅を設けることを決め、武者小路通(京都市上京区を東西に走る道)の徳大寺氏の屋敷跡に建てることにした。
その旨を足利義昭に伝えると快諾し、屋敷の建築については義昭が行うと言った。義昭は以前から信長に京都にも屋敷を設けるよう勧めていたので、大いに喜んでいたのである。
ところが、信長は義昭の厚意を再三にわたって断っていたが、度重なる義昭の熱意に負け、屋敷の建築を任せることにした。そして、畿内の職人や武将らが招集され、屋敷の建築に取り掛かった。
5月6日、盛大に豪華絢爛に鍬初めの儀(安全祈願)が行われ、普請奉行には村井貞勝と島田秀満、大工棟梁は池上五郎右衛門が任命された。
建築にあたり、細川昭元と岩成友通が信長のもとへ挨拶に訪れ、また、石山本願寺からは白天目の茶碗と万里江山の軸(掛け軸)が贈られた。
三好義継の反乱
画像:三好義継の肖像(京都市立芸術大学資料館)
そんな穏やかな情勢のなか、三好義継が道理に反する行いをした。松永久秀と、その息子の松永久通らと共に畠山昭高に対して攻撃を仕掛けたのである。
畠山昭高は信長の妹婿(斎藤道三の娘・斎藤夫人と結婚しており、夫人は信長の養女であった)にあたる人物で、義継の行動は信長に対して無礼な行為であった。
義継らは畠山の家臣・安見新七郎の居城である交野城(大阪府交野市)を包囲し、周辺に砦を築いて山口六郎四郎(松永久秀の部下)と奥田三河守を配置させて300の兵で構えていた。
これらを指示したのは松永久秀であり、直ちに信長は討伐軍を編成して出陣させた。
柴田勝家、佐久間信盛、稲葉一鉄、蜂屋頼隆、氏家直通、不破光治、斎藤新五、安藤守就、丸毛長照、多賀新左衛門ら武将が率いる大軍は交野へ急行し、敵方の砦の四方を鹿垣(枝のついた木や竹で作った柵)で囲み、逃げれないようにした。
しかし、このとき強風や大雨が吹き荒れ、その隙に敵らは脱出してしまった。
その後、三好義継は若江城(大阪府東大阪市若江南)に立て籠もり、松永久秀は信貴山城(奈良県生駒郡)で籠城し、息子の久通は多聞山城(奈良市法蓮町)に退散した。
この報告を受けた信長は、6月29日に岐阜城へ帰還した。