信長公記・5巻その3 「三方ヶ原の戦い」
画像:三方ヶ原古戦場跡
三方ヶ原の戦い
元亀3年11月の下旬(1572年12月の末頃)、甲斐国(山梨県)の武田信玄が遠江(静岡県磐田市)の二俣城(静岡県天竜市二俣)を包囲しているという知らせが信長に届いた。
直ちに信長は平手汎秀、佐久間信盛、水野信元ら織田の家老を大将とする援軍を編成し、遠江に出陣させた。織田の援軍は浜松に入ったが、すでに二俣城は陥落したあとで、武田軍は堀江城(浜松市館山寺町)に向かっていた。
武田軍が浜松に迫っていることを知った徳川家康(松平信康)は出陣して抗戦する決意をした。
1573年1月25日(元亀3年12月22日)、徳川軍は浜松城を出陣し、三方ヶ原(浜松市三方原町)で武田軍と衝突した。織田の援軍も加わり、武田軍との戦闘が開始した。
序盤、武田軍は「水役の者」と名付けられた300名ほどの小隊が前方に出て大量の石を投げつけてきた。困惑する織田の兵らを目掛けて、太鼓の音と共に武田の軍勢が一気に攻め寄せ、織田の援軍と徳川軍は一瞬で崩れた。
このとき、平手汎秀と平手隊の兵、家康の部下・成瀬藤蔵など強者たちが討ち取られ、三方ヶ原の合戦場は織田の兵や徳川の兵らの死体が転がり、見るも無残な光景であった。
戦死者のなかには幼少から信長に小姓(世話係)として仕えていた山口飛騨、佐脇藤八、長谷川橋介、加藤弥三郎もいて、これら4人は信長を怒らせたことで尾張を追放されており、家康を頼って浜松に身を寄せていた。
彼らは名誉挽回のためにも三方ヶ原の合戦に参戦し、奮戦したのちに見事な討死にを果たしたのである。
画像:武田信玄の肖像(高野山持明院)
しかし、ほかにも悲劇はあった。彼らと親交の深かった尾張清洲(愛知県清須市)の商人で具足屋(武具を扱う店)の主人・玉越三十郎という若者(23~24歳)が、丁度この頃に堀江(浜松市館山寺町)を訪れていた。
そして、彼らの耳に武田軍が堀江城を攻囲するという情報が入り、4人は玉越のもとへ向かい、「武田は浜松城にも侵攻する可能性が高く、我らは徳川と共に戦うが、貴殿は早々に遠江から出ていけ」と説得した。
しかし、玉越は聞き入れずに、「このまま退散しては一生の恥になる。清州に帰っても笑われ者だ」と意思は固く、山口飛騨、佐脇藤八、長谷川橋介、加藤弥三郎と一緒に出陣して共に討死にした。
家康は退却を決意し、三方ヶ原の細道を通って撤退した。しかし、道中に武田軍の兵が待ち構えており、道を塞いでいた。家康は馬上から矢を放って前方の敵を崩すと急いで浜松城に帰還した。
この通り、家康は弓の名手であった。三方ヶ原で圧勝した武田軍は浜松城に進軍することなく引き返していった。