信長公記・6巻その1 「足利義昭と対立」
画像:足利義昭の座像(等持院霊光殿)
名刀の献上
天正元年(1574年)の冬、松永久通(松永久秀の息子)は反逆の罪を許され、信長に多聞山城(奈良市法蓮町)を明け渡した。多聞山城には山岡景佐を入城させた。
そして正月の8日、松永久秀が岐阜へ参上し、不動国行(天下の名刀と呼ばれた刀)を信長に献上して赦免(罪を許されること)の礼を述べた。久秀は薬研藤四郎(名刀。粟田口吉光が造った短刀)も以前に献上していた。
十七条の異見書
異見十七ヶ条 公方様御謀叛
足利義昭が信長に敵意をもっているのは、この頃には明白だった。以前、信長は義昭に対して十七ヶ条の異見書を送っており、この書状は将軍としての義昭の勝手な言動や怠慢ぶりを記して非難したものである。
義昭は信長の忠告に耳を貸さず、反対に信長を非難したことで敵意を示していることが明らかとなった。信長が義昭に送った異見書の十七ヶ条は次のとおりである。
その一
足利義輝は禁中(皇室または朝廷)に足を運ぶことが少なく、その結果、自分の身を滅ぼしてしまった。そうならないために貴殿(義昭のこと)には定期的に禁中へ足を運ぶように申し上げてきたのに、それを怠っており誠に残念である。その一
必要なものがあれば信長が用意すると約束したはず。それなのに、なぜ、ほかの大名から馬などを貰っているのか。よろしくない行為であり、取り決めを破るのは黙認できない。その一
幕府に奉公したり忠節を尽くしたり功のある者には褒美を与えないのに、新参者で、なおかつ目立った働きもない者たちを厚遇したり贔屓(ひいき)したりするのは理不尽である。その一
せっかく貴殿(義昭)の新座所を信長が造ったのに、ほかの場所に重宝などを移しているようで、そのことを京都の内外に関わらず知れ渡っており、よそへ座所を移すなど無念なことである。その一
賀茂神社(京都市)の一部を没収し、それを内密に岩成友通(三好三人衆の一人であり、信長の敵)へ与えるのは好ましくない。このような手段で寺社の領土を没収するのは不届きである。その一
織田家と友好的な関係にある者たちを冷遇するのは理不尽である。しかも、女官や奉公人などに対しても冷たく接し、不当な扱いをしているとのことで、そのような言動は改めるべきである。その一
何の落ち度もなく将軍に奉公している者ら(古田可兵衛、観世与左衛門・、野紀伊守)に対して貴殿(義昭)は扶持(主君が武士に与える俸禄)を施していないようで、その者たちが信長に不憫な想いを訴えてきている。そのことを貴殿に申し上げているのに、その後も進展がないので彼らに合わす顔がない。その一
若狭国(福井県小浜市)の安賀庄という代官(地頭)に対して粟屋孫八郎が訴訟を申し出ているのに、貴殿(義昭)は受け入れようとはせずに無視し続けている。栗屋の訴えは正当であるのに無視するのは好ましくない。その一
小泉という者は偶発的な喧嘩が原因で死んだが、一方的に小泉を罪人と決めつけて刀や脇差(担当)など身の回りの一式を没収したのは好ましくない。将軍は世間から強欲と思われている。その一
元亀は不吉ということから、改元(新しい元号に改めること)するように禁中(皇室または朝廷)からも催促されているのに禁中へ費用を献上する気配もないし、改元する動きもないので好ましくない。その一
烏丸光康の揉め事について、息子の光宜に対して腹を立てるのは仕方ないが、光康に対しては許すように申し上げたはず。それなのに、光康から金銭を受け取って罪を許すという行為は周囲に不信感を与える行動である。その一
貴殿(義昭)は京都の内外の大名らから金銀を貰っているようだが、禁中に費用を献上することもなく自身で蓄えている。何のために貯金しているのか説明いただきたい。その一
明智光秀が京都の町で徴収した税金を一時的に貴殿(義昭)へ預けていたのに、比叡山から徴収したことにされて貴殿が差し押さえてしまった。これは不当であり、どういうつもりか。その一
去年の夏、幕府に蓄えていた米を売り払って現金化したそうですが、商売する将軍など聞いたことがない。世間的には米を蓄えておくほうが印象はいいのに、なぜ、そのような行為に及んだのか驚いている。その一
宿直(交替で泊まり込んで夜の警備に当たる)の武士には都度、褒美を与えればいいのに、わざわざ不要な役職をつくって地位を上げたり特別扱いしたりするのは好ましくない。世間から反感を抱かれても仕方ない。その一
諸国の大名らは、いざという時のために武具や兵量、金銭を蓄えています。しかし、貴殿(義昭)は新座所から重宝や武具などを別の場所に移してしまいました。それを見た者たちは貴殿が京都を見捨てたと思っている。国のトップに立つ者として責任ある言動をとっていただきたい。その一
貴殿(義昭)は欲深いので、世間では百姓までもが「将軍は恥知らず」とか「悪御所(悪質な将軍)」と言っている。なぜ、そのような悪口を言われているのか考え、今後は分別ある言動をとっていただきたい。
この異見を義昭は無視し、信長は遠江(静岡県の西部)で武田信玄と対峙することになり(義昭が信長包囲網を発動したため)、近江では朝倉・浅井の連合軍と臨戦態勢にあった。
信長は村井貞勝、日乗上人、島田秀満を義昭のもとへ使いに出して改善をはかろうとしたが、和談(争いを避けるために話し合うこと)に至ることはなかった。
それどころか、義昭は武力で対抗してきたのである。近江国の堅田(滋賀県大津市の北部)の山岡景友や磯貝新右衛門、摂津(大阪府北部と兵庫県南東部)の渡辺党へ内密に命令し、挙兵して信長を討つように指示した。
山岡や渡辺らは今堅田(大津市)に兵を配置させ、一揆衆と手を組んで石山(滋賀県大津市の山)に砦を築いた。ただちに信長は柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、蜂屋頼隆を出陣させて敵兵の鎮圧に動いた。