信長公記・7巻その1 「武田勝頼の侵攻」
画像:浅井長政の肖像(長浜歴史博物館)
浅井親子と朝倉義景の首
1574年1月23日(天正2年1月1日)、京都をはじめ近江や尾張、伊勢など近国の武将が年賀の挨拶で岐阜城に集まっていた。盛大な宴が開かれ、武将らは三献の儀(三三九度)で信長から手厚いもてなしを受けた。
宴が終わったあと、馬廻(騎馬の武士)だけを残して小さな宴(今で言う二次会)が開かれたが、このとき、これまで誰も見たことがないような珍しい酒の肴が並べられた。
その肴とは、浅井久政、浅井長政、朝倉義景の首だった。それぞれの首は漆で固めて金箔で彩色されており、白木の台に並べられ運ばれてきた。そして信長は、それを見ながら酒を楽しんでいた。
越前国の一揆
2月10日、越前国(福井県越前市)の前波吉継が越前領内の地侍らに攻め入られて他界したという報告が信長に届いた。前波は信長から越前国の守護代を任せられていたのだが、前波の高慢な態度や横柄な振る舞いに反感を抱く人間が増え、地侍らが結託して一揆を起こしたのである。
一揆衆は国境に砦を築いて守備を堅めており、信長は丹羽長秀、羽柴秀吉、不破光治、武藤舜秀、同直光、同兼利、丸毛長照ら武将と若州(若狭国。福井県小浜市)の戦力を敦賀に向かわせ、戦闘の準備を整えさせた。
武田勝頼の侵攻
画像:武田勝頼の肖像(高野山持明院)
2月18日、武田勝頼の軍勢が岩村(岐阜県恵那市岩村)に進軍して明智城(恵那市明智町)を包囲したという報告が信長に届いた。直ちに信長は対応策を考え、まずは2月22日に美濃と尾張の戦力を先陣として明智城に向かわせ、信長は息子の信忠を連れて2月26日に出陣し、御嵩(恵那市御嵩町)に陣を構えた。
27日、信長は高野(岐阜県瑞穂市)に陣を移し、28日に武田へ攻撃を仕掛けようとしていた。けれど、この一帯は険しい山々が連なる天然の難所となっており、織田、武田、両軍共に身動きがとりづらい状況で、お互いに出陣できずにいた。
なんとか状況を打開しようと信長は、「山々に散らばって突破せよ」と指示を出したが、その最中、明智城では飯羽間右衛門が謀反を起こして落城してしまった。
画像:明智城跡(岐阜県恵那市明智町)
明智城が陥落した今、もはや不利な状況は変えられなかった。やむを得ず信長は軍を高野引き返し、この地に城を築いて河尻秀隆を入城させ、さらに小里(岐阜県瑞穂市)にも城を築いて池田恒興に守備させ、武田の攻撃に備えた。
そして、3月17日、信長は信忠と一緒に岐阜城へ帰還した。4月3日、信長は岐阜城を出発して京都に向かい、途中、佐和山城(滋賀県彦根市)に数日ほど滞在した。
7日、永原(滋賀県長浜市)で一泊して8日に志那(滋賀県草津市)から坂本(滋賀県大津市)に渡った。
石山本願寺との対立、再び
画像:石山本願寺跡
京都に着いた信長は相国寺(京都市上京区)に泊まり、名香(名高い香木)と呼ばれる蘭奢待(またの名を東大寺。良い香りをもつ木)を拝みたい旨を内裏(朝廷)へ申し入れた。
内裏は日野輝資と飛鳥井大納言が4月17日に南部(奈良)へ使者を出し、蘭奢待の拝観が許可されたことを伝えた。(蘭奢待は奈良の東大寺に保管されていた)
そして18日、信長は佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、荒木村重、蜂屋頼隆、原田直政、松井友閑、武井夕庵、菅谷長頼、津田坊を従えて多聞山城(奈良市法蓮町)に入った。
19日の朝(8:00を基準に前後2時間)、正倉院(重要物品を納める東大寺の倉)が開かれた。蘭奢待は6尺(1メートル80センチほど)の長持(長方形の木箱)に納められていた。
蘭奢待は多聞山城に運ばれ、御成の間(城内において接待のために臨時に設けられた座敷)に置かれ、信長は古くからのしきたりに従って蘭奢待から一寸八分四方(33センチほど)を切り取った。
すると信長は切り取った蘭奢待を手に取り、「先祖代々、語り継げ」と参席した家臣たちに披露した。
蘭奢待の切り取りは寛正(1461年から1466年の元号)の時代、東山殿(慈照寺。俗にいう銀閣寺。1465年に足利義政)が切り取りを許されて以来、その後も蘭奢待の切り取りを願い出る者が多かったが、誰一人として許されなかった。
そのような秘宝であるにも関わらず、この度、信長は蘭奢待の切り取りを実現したのである。
そんな矢先、4月23日、大坂の石山本願寺が再び信長に対する敵対の意を明らかにした。直ちに信長は兵を大坂に向かわせ、田畑の薙ぎ倒しと放火を行わせた。
六角承禎の退散
5月3日、石部城(滋賀県湖南市)で信長に対する抵抗を続けていた六角承禎が、雨が降りしきる夜間、城を捨て退散した。落城したのち、石部城は佐久間信盛が守備を任せられた。
元亀(1570年から1573年)以来、六角親子は江南(滋賀県の南)を基盤に信長へ抵抗を続けており、石部城が最後の拠点であった。