信長公記・8巻その3 「誠仁親王の蹴鞠はじめの儀式」
画像:狩野元秀・画「紙本著色織田信長像」(長興寺)
信長と山中の猿
美濃(岐阜県南部)と近江(滋賀県)の境にある関ケ原には山中(岐阜県関市山中)という地域がある。山中を通る街道の道端に身体に障害をもつ物乞(こじき)がおり、以前から信長は京都へ行き帰りの際に目撃していた。
その度に信長は物乞に対して哀れな感情を抱いていたが、それと同時に「ここで何度も見かけるということは特定の住所がない浮浪者ということだな」と不信感を抱いていた。信長は山中の住人を呼び出し、この乞食について事情を聴いた。
すると住人は、「昔、山中の宿で常盤御前(源義朝の側室)を殺した者がいます。その者の子孫は代々、罰として身体に障害をもって生まれ、物乞いして暮らしているのです。地元の住人は、あの乞食を山中の猿と呼んでいます」と話した。※
※史実によると常盤御前は殺害されていない。この地で広まった単なる噂話。
1575年8月2日(天正3年)、信長は急な用事で京都に向かった。途中、信長は山中の乞食を思い出した。山中の宿に着いた信長は所持していた荷物から二十反の木綿※を出し、宿の者に外へ出てくるよう言った。
※(一反の長さは生地の種類によって異なり、着物に使用する織物やビロードは一反で約23メートル、化学繊維の織物は一反で46メートル~50メートルというのが一般的。23メートルなら二十反で460メートル、46メートル~50メートルなら二十反で920メートル~1キロメートルとなる)
宿から出てきた者や集まった住人らは、信長から何を言われるのか緊張していた。信長は宿の者や住人に二十反の木綿を見せ、山中の乞食に「これはお前の物だ」と言った。
そして、二十反の木綿を住人に渡し、「これを元手に乞食のために家を建ててやれ。それから、乞食が飢え死にしないように面倒をみてやってくれ」と言い付けた。
さらに信長は、「麦の収穫日には麦を食わせ、米の収穫日には米を食わせ、一年に二度ほど、そんな施しも与えてやってくれたら有難い」と言葉を添えた。
それを聞いた乞食や住人らは感動のあまり涙を流し、信長のお供たちも感涙した。このように信長には慈悲深い一面もあり、そうした行いにより天の御加護もあって織田家の繁栄がもたらされたのだろうと部下たちは感銘を受けた。
山中を出た信長は佐和山(滋賀県彦根市)で休憩し、舟に乗って坂本(滋賀県大津市)に入った。3日は世話係と5、6人だけ引き連れて相国寺(京都市上京区)に泊まった。
6日、相国寺に摂家(公家の一つ。摂政関白の家柄)と清華家(公家の一つ。摂家の次に格式の高い家柄)の面々が訪れ、信長に挨拶を述べた。
また、播磨(兵庫県南西部)の別所長治と孫の重宗、武田元明(若狭武田氏9代目)や三好康長、塩河国満(塩川国満)、熊谷伝左衛門、粟屋越中、内藤筑前、山県下野守、逸見駿河、松宮某、白井某、畑田某らも京都に出向いて信長に挨拶を申し上げ、塩河は信長から馬を拝領した。
※某(それがし)とは、不定称の指示代名詞。その名がわからない人や物事を指す
そのほかにも信長のもとへは畿内(山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)から次々と訪れ、挨拶を述べた。
誠仁親王の蹴鞠はじめの儀式
画像:下鴨神社の蹴鞠はじめ(出典:京都旅屋)
8月8日、皇居(朝廷)にて誠仁親王(正親町天皇の長男)による蹴鞠(けまり)はじめの儀式が盛大に開かれ、信長も馬廻(護衛)を引き連れて出席した。
儀式は天皇の居所である清涼殿の庭で行われ、次の者たちが白洲(砂利の庭)に敷いた猫掻(藁やイグサで編んだ敷物)の上で蹴鞠を行った。また、それぞれは次の格好で蹴鞠を行った。
- 誠仁親王
最初は立烏帽子(えぼし)に赤と藍の直衣(公家の普段着)、下は指貫の袴(男性用の袴)。そのあと、赤の傍続(狩衣。平安時代以降の公家の普段着)に着替え直した。 - 三条西実枝・・・白の直衣に指貫の袴
- 勧修寺晴右・・・檜皮の狩衣に指貫の袴
- 飛鳥井雅教・・・紫の狩衣に葛布(葛の繊維を紡いだ糸から作る織物)の袴
- 庭田新重保・・・萌葱(黄と青の中間色)の狩衣に葛布の袴
- 甘露寺経元・・・玉虫(光の具合で緑や紫などに変わって見える)の狩衣に葛布の袴
- 高倉永相・・・紫の狩衣に葛布の袴
- 山科言経・・・紫の狩衣に葛布の袴
- 庭田重通・・・紫の狩衣に葛布の袴
- 勧修寺晴豊・・・蜥蜴(光の具合で横糸の赤色が交差してトカゲの色に見える)の狩衣に葛布の袴
- 三条西公明・・・萌葱の狩衣に葛布の袴
- 中山親綱・・・束帯(公家の正装)
- 飛鳥井雅敦・・・玉虫の狩衣に葛布の袴
- 烏丸光宣・・・紫の紋紗(薄く透き通る絹織物)の狩衣に葛布の袴
- 竹内長治・・・萌葱の狩衣に葛布の袴
- 中院通勝・・・染紫の狩衣に葛布の袴
- 水無瀬兼成・・・萌葱の紋紗の狩衣に葛布の袴
- 三条実綱・・・地絵を施した紺の狩衣に葛布の袴
- 日野輝資・・・紫の狩衣に葛布の袴
- 広橋兼勝・・・紺の紗の狩衣に葛布の袴
- 高倉永孝・・・金色の紗の狩衣に葛布の袴
- 万里小路充房・・・緑青(銅に生ずる緑色の錆)の狩衣に葛布の袴
- 薄以継(薄諸光)・・・蘇芳(黒味を帯びた赤)の狩衣に葛布の袴
- 五辻元仲・・・柳柄の狩衣に葛布の袴
※蹴鞠を行った者たちは、皆が立烏帽子を被っていた。
画像:下鴨神社の蹴鞠はじめ(出典:京都旅屋)
蹴鞠が終わると信長は黒戸御所(清涼殿の北側にあった細長い部屋)の置縁(縁台または床几)が天盃(天皇から賜る杯、酒)を拝領した。そして、信長に官位を授けると申されたが、信長は丁重に断った。
その代わり、明智光秀に惟任と日向守の名を、簗田広正には別喜と右近太夫の名を、丹羽長秀に惟住の名を授からせた。さらに、松井友閑は正四位下の宮内卿法印(朝廷から授かる位・階位)に、武井夕庵を二位法印(朝廷から授かる位・階位)に任官させた。
- 惟住とは、豊後(大分県)の名族・大神氏の一門の姓
- 別喜は豊後守護・大友氏の一門の姓
8月11日、妙顕寺(京都市上京区)にて上京と下京の者たちが能を催し、これを信長は見物した。この日、桟敷(さじき。上等な見物席)に入ることが許されたのは、信長のほかに摂家・清華家の者、長雲坊、武井夕庵、楠木長安正虎、松井友閑のみであった。
能の演目は8番まであり、お偉方の要望で観世流(能の流派の一つ)の与左衛門と又三郎が太鼓を打った。
8月20日、信長は京都を出て美濃(岐阜)へ向かった。ちなみに信長は、以前に近江(滋賀県)瀬田の大橋を建て直すように指示しており、木村次郎左衛門と山岡景隆によって朽木山(滋賀県高島市)や神宮寺山(福井県小浜市)から木材が切り出された。
そして、8月17日の吉日に柱立の儀(家屋の建築で初めて柱を建てるときの祝賀の儀式)が行われた。
建築される大橋は幅が7メートル前後の長さ324メートルで、橋の両側には欄干(墜落防止用の手すり)を設け、末永く利用できるように、しっかりと壊れにくく造るように命じた。
さて、話は戻り、8月20日に京都を出た信長は常楽寺(滋賀県湖南市)で一泊し、21日は垂井(岐阜県不破郡)に宿泊した。22日は、どこにも寄らずに岐阜城へ帰還する予定だったが、途中、稲葉一鉄の居城である曾根城(岐阜県大垣市)に立ち寄った。
稲葉は信長の訪問を喜び、孫らに能を演じさせて信長をもてなした。信長は感謝の気持ちとして腰に差していた刀を稲葉貞通(一鉄の息子で次男。ただし、正室が産んだ子だったので実質的には長男)の息子に与えた。
その後、曾根城を出た信長は、22日のうちに岐阜城へ帰還した。