信長公記・8巻その5 「越前の一向一揆(後編)」
画像:明智光秀の肖像(本徳寺)
丹波攻略
越前の一揆を平定後、1575年11月(天正3年10月)の初旬に信長は明智光秀に丹波(京都府北部京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)への出撃(黒井城の城主である赤井氏への攻撃)を命じた。
光秀は黒井城の周りに2~3の砦を築き、大軍を率いて包囲した。どう見ても戦況は光秀が有利であり、このときの状況を光秀は「城の兵糧は来春まで続かなから落城する」(八木豊信の書状に記されていた文面)と言っている。
ところが、1576年2月14日(天正4年1月15日)、波多野秀治(秀治は三好氏の家臣だったが信長が足利義昭の上洛に貢献したことで織田の家臣となった)が3万の兵を率いて明智軍に攻撃を仕掛けてきた。
秀治の裏切りによって体制を崩された明智軍は退散し、光秀は丹波の攻略を中断した。また、荒木村重には播磨国(兵庫県南西部)へ出陣して人質を捕獲してくるようにという指示が下さった。
戦後処理
1575年10月17日(天正3年9月14日)、越前国を平定後、信長は豊原(福井県坂井市丸岡)から北の庄(福井市)へ移動し、丹羽長秀、滝川一益、塙直政によって足羽山(福井市足羽)に陣営が築かれ、織田の家臣らが陣営の前後を囲んでいる光景は圧巻であった。
また、陣営には信長のもとへ挨拶に訪れた加賀(石川県南部)や越前(福井県嶺北地方と敦賀市)の武士らで行列ができていた。その後、信長は期間の支度に入った。
すると、加賀の一揆衆の生き残りが信長を襲撃してきたのである。この状況に羽柴秀吉は、「天が与えた贈り物」とばかりに一揆衆を迎え撃ち、秀吉の部隊は250余りの敵を討ち取った。
画像:豊臣秀吉の肖像(中村公園プラザ秀吉清正記念館)
この報告を受けた信長は、岐阜城に帰還するために越前を出発した。なお、越前を出る前に信長は次のような国掟(越前国掟。越前国内におけるルール、規則)を定め、柴田勝家に越前の統治を任せた。
一.住人から不法な税(物品)は取るな。不当な労働力を強いるな。事情がある場合は信長に相談せよ
一.地元の武士らを私欲のために利用するな。丁寧に慎重に扱え
一.裁判は公正に行え。揉めるときには信長に相談してから判決を下すこと
一.公家・寺社領は下の所有者に変換すること。ただし、法的な正当性が必要。
一.関所は撤廃し、関銭を廃止する
一.一国の主であることを、万事に備えて軍備の増強や兵糧の備蓄を怠るな
一.鷹狩りするな。ただし、砦を築く際に地形を見るのに仕方ない場合は許す
一.領内の数箇所は直轄領として留保しておけ。それを、忠節を尽くした者に恩賞として与えよ
一.問題が生じたときは信長の指示に従え。しかし、明らかに不当な指示や不道理なら従うことはないが、理由を述べなければならない。理由が正当なら方針を変えて指示し直す
そして、信長を尊敬し、目の届かないところで気を抜くな。信長のいる方角へ足を向けないよう心がけよ。そうすれば加護があり、武運も末長く続くだろう。(1575年10月)
以上が勝家に命じた越前国掟である。さらに佐々成政、不破光治、前田利家にも信長から次の文書が送られた。
「越前の統治は柴田勝家に任せた。君たちには勝家の監視・補佐役として2つの郡(府中(福井県南条郡)10万石)を与える。問題があったときは直ちに報告すること。気を抜かず互いに切磋琢磨し、容赦や手加減しないように。(1575年10月)」
画像:本朝名将百図「柴田勝家の肖像(長浜城歴史博物館)
そして、信長は10月26日に北の庄を出発して府中に入った。27日には椿坂(滋賀県長浜市余呉)で一泊し、28日は垂井(岐阜県不破郡垂井)に宿泊し、29日に岐阜城へ帰還した。
以前、奥州(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)に注文していた鷹50羽が岐阜に届いた。そのうちの23羽を信長が所有し、残りは家臣たちに分け与えた。
12日、信長は京都に出発するにあたり手に入れた鷹から上鷹17羽を選定し、連れて行った。途中、垂井に宿泊し、13日は柏原(滋賀県米原市)で水無瀬兼成と三条実綱が出迎え、佐和山(滋賀県彦根市)に泊まった。
14日は永原(滋賀県長浜市)に入り、建築中の瀬田(滋賀県大津市)の大橋を視察した。すでに大橋は完成しており、その出来栄えは立派な造りであったので誰もが驚いた。
その後、瀬田、逢坂(滋賀県と京都府南部の境界)、山科(京都府山科区)、栗田(京都府宮津市)では摂家・清華家(公家のなかでも上位の者たち)や隣国の武将らが行列になって信長を盛大に出迎え、崇敬そのものだった。
21日は、奥州の伊達輝宗(伊達政宗の父)から白石鹿毛とがんぜき黒の名馬2頭、鶴取りの鷹(鶴を捕獲する鷹)2羽が献上された。とくに白石鹿毛は信長のお気に入りとなり、「龍の子」と褒め称えられた。
信長は清水(京都市東山区)まで進み、ここで伊達氏が遣わせた鷹匠(鷹を鍛える名人)の菅小太郎と、馬の世話役の樋口という者が挨拶に訪れ、信長は村井貞勝に指示して二人に御礼の品々を持ち帰らせた。
なお、贈った品々は羅綾(綾羅。綾織りの絹と生地の薄い絹)二十反※と虎の革5枚、豹の革5枚で、それに加えて菅と樋口にも黄金2枚を与えた。
※(一反の長さは生地の種類によって異なり、着物に使用する織物やビロードは一反で約23メートル、化学繊維の織物は一反で46メートル~50メートルというのが一般的。23メートルなら二十反で460メートル、46メートル~50メートルなら二十反で920メートル~1キロメートルとなる)
22日には播磨(兵庫県南西部)の赤松氏や別所氏、小寺氏など近隣だけでなく遠い地域の者たちも次々と挨拶に訪れた。