信長公記・8巻その6 「織田信忠の家督相続」
画像:唐物茶入「初花肩衝」(大正名器鑑)
石山本願寺との和睦
1575年11月23日(天正3年10月21日)、信長は松井友閑と三好康長を大坂の石山本願寺に向かわせ、和睦を成立させた。(長島と越前の一向一揆を平定したことで石山本願寺から和睦の申し入れがあった)
これに伴い、大坂から八木駿河、平井越後、今井氏らが信長のもとへ和睦の御礼に訪れ、花の絵、枯木、小玉潤の掛け軸を献上した。三好康長は三日月の葉の茶壷が贈られた。
25日は飛騨国の主である姉小路頼綱が信長のもとを訪れ、栗毛の駿馬を献上した。この馬を信長は気に入り、愛蔵した。
妙覚寺の茶会
30日、信長は京都と境(摂津国・河内国・和泉国)の数寄者(茶の湯を趣味とする人)を妙覚寺(当時は京都市中京区二条衣棚。現在は上京区)に集めて茶会を開いた。
一、 床間に遠寺晩鐘の絵と三日月の茶壷が飾られた
一、 七台の茶碗と白天目の茶器、九十九茄子の茶入れと内赤の盆が違い棚に置かれた
一、 合子の建水(茶道具の一つ)と乙御前釜が使われた
一、 天下三茶壺の一つである松嶋の茶壷が飾られた
一、 茶頭(茶席を仕切る人)は堺の千宗易(改名前の千利休)が務めた
信長が開いた茶会は実に格式が高く、参加した者たちは一生の思い出となった。
信長、右大将に成る
画像:織田信長の肖像(大雲院)
信長は右大将(右近衛大将。朝廷の警固・守備を司る上位の官職。武家の重職)の任官が決定した。以前より朝廷から任官の打診はあったが、信長は断り続けており、この度ようやく受け入れたのである。
拝賀の儀式を行うために木村次郎左衛門を責任者にして11月の初旬(天正3年10月初旬)から皇居に陣座(じんのざ。公家が政務を評議するための席)を造らせた。
陣座が完成し、12月6日、信長は正式に右大将を任官し、信長は大納言(大臣が不在のときに朝廷の政務を取り仕切る重職)に就いた。9日には朝廷を訪れ、三条西実枝が同席する中で御礼を申し述べた。
なお、このとき朝廷を警護していた100人の弓矢隊には正親町天皇から盃(酒)が与えられた。前代未聞の光栄であり、弓矢隊にとっては代々に語り継がれる栄誉となった。
岩村城の戦い
一方その頃、美濃(岐阜県南部)から武田勝頼が甲斐(山梨)と信濃(長野県、岐阜県中津川市の一部)の浪人や農民を集めて軍を編成し、岩村城(岐阜県恵那市)の援軍に向かっているとの報告が届いた。
このとき、信長の指示を受けた織田信忠(信長の長男)が岩村城を攻めている最中(武田氏に奪われた岩村城を取り戻す)であり、12月16日の戌の刻(午後8時の前後2時間)に信長も京都を出発して進軍し、17日に美濃へ入った。
しかし、12日の夜に武田軍が水晶山(岐阜県恵那市岩村)で信忠の部隊に夜襲を仕掛けてきた。奇襲であったが信忠は素早く対応し、毛利秀頼、浅野左近、河尻秀隆、猿荻甚太郎らが武田軍と交戦し、敵兵を水晶山から追い払った。
岩村城の落城
画像:織田信忠の肖像(大雲院)
岩村城でも動きがあった。岩村城を守る武田の兵は城を囲む柵を壊し、夜襲に失敗した勝頼の援軍を迎え入れる準備をしていた。信忠は柵が壊された瞬間を見逃さず、守備が弱くなった岩村城へ一気に攻め入った。
岩村城の兵らは山に敗走したが、信忠の部隊が追撃して次々に討ち取り、武田家の大将21名と屈強な侍1100余りを斬り捨てた。岩村城を守る武田勢の秋山虎繁は戦意を失い、織田の家臣・塚本小大膳を通じて降伏を申し出た。
これに対し、塚本小大膳が責任者、塙伝三郎が監視役、という条件で信忠は降伏を受け入れた。ところが、12月23日、岩村城の大島杢之助、秋山信友、座光寺為清が御礼に参上したところを信忠は捕縛し、長良川の川岸で磔にした。
岩村城に立て籠もっていた馬木十内、久保原内匠、須淵傳左衛門、馬坂求馬、大船五六太が信忠の部隊と抗戦して討死にし、追い詰められた遠山徳林斎、遠山二郎三郎、遠山三郎四郎、遠山藤蔵、遠山市之丞、遠山内膳、遠山三右衛門らは市丞丸に逃げ込んで自害した。
生き残った兵らも焼き殺された。勝頼は岩村城の陥落を知り、軍を引き返して退却した。信忠の采配により岩村城は河尻秀隆へ与えられ、信忠は兵を率いて26日に岐阜城へ帰還した。
信忠の働きに一目置いた朝廷は信忠に秋田城介(東北地方を警固する役職、官職)を与えた。
信忠が織田の家督を継ぐ
12月30日、信長は織田の家督を信忠に譲り、信忠は織田の家督を相続した。
織田家の主となった信忠は尾張(愛知県西部)と美濃(岐阜県南部)の統治を任せられ、金銀を散りばめた岐阜城の屋敷や星切太刀など、数々の宝も一緒に譲り受けた。
信長は茶道具だけを所有して佐久間信盛の屋敷に移った。