信長公記・9巻その1 「安土城の建築」
画像:安土城図(大阪城天守閣)
安土城の建築
1576年の2月中旬(天正4年の正月の中旬)、信長は近江(滋賀県)の安土山に城を築くよう丹羽長秀に命じ、築城が開始された。3月23日(2月23日)には信長も居所を安土に移した。
長秀の進行ぶりを見た信長は満足し、褒美として長秀に名物と名高い珠光茶碗を与えた。
また、馬廻(騎馬の武士。または主君に付き添って護衛や戦力を担う役割)の者たちには安土山の麓に土地を与え、そこに自分の屋敷を建てるよう命じた。
信長は城内に天守(信長公記には天主と記されている)を築くよう命じ、城に施す瓦の制作は唐(中国)の一観に任せられた。
安土山には尾張、三河、美濃、伊勢、越前、若狭(福井県南部から敦賀市を除いた地域)、畿内(山城国・摂津国・河内国・大和国・和泉国)、京都、堺、奈良から武士や大工が集まり、作業に取り掛かった。
4月29日には安土山に大石が運ばれ、石垣が築かれ始めた。
安土山に近接する伊場山、長光寺山、長命寺山(いずれの山も滋賀県近江八幡市)から石が採掘され、1000、2000、3000にまとめて安土山へ運ばれ、その中から大石だけを選び抜いた。
なお、このとき大石の選定に任命されたのは吉田平内、西尾小左衛門、小沢六郎三郎、大西氏ら石奉行であった。
なかでも、津田坊という者が運んできた蛇石と呼ばれる石は並外れた立派な大石だったが、山の麓まで運べたものの山頂に引き上げられずにいた。
そこで丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉らが指揮をとり、1万人の人員をもって引き上げることとなった。
信長は巧妙な技(石に飾りを施して笛や太鼓で人員の士気を高めた)で囃し立て、昼夜3日かけて蛇石を山頂へ引き上げることに成功した。
安土山の築城が進むなか、信長は京都にも自分の屋敷を建築しようと考えていた。信長は京都に出発し、安土山の築城の監督を息子の信忠に任せた。5月27日、京都に着いた信長は、妙覚寺(当時は京都市中京区二条衣棚。現在は上京区)に宿泊した。
京都屋敷の建築
信長は、二条晴良(公家。関白など朝廷の重職を務めた人)の屋敷跡に自分の屋敷を建てることを決定し、村井貞勝に建築を任せた。この地を信長が選んだ理由は、屋敷跡にあった泉水と庭の景観が見事だったからである。
石山本願寺の戦い
画像:石山本願寺跡(大阪市中央区大阪城)
1576年5月12日(天正4年4月14日)、信長は明智光秀、細川藤孝、塙直政、荒木村重を大坂に向かわせて石山本願寺(現・大阪市中央区大阪城の敷地内)を攻めさせた。
1575年11月23日(天正3年10月21日)に信長は石山本願寺と和睦(信長が長島と越前の一向一揆を制圧したことで石山本願寺から和睦の申し入れがあった)していたが、1576年5月に再び対立した。
荒木村重は尼崎(兵庫県南東部の地域)から船で攻め寄せ、北野田(大阪市都島区、福島区)に3つの砦を築いて河川の経路を封鎖した。細川藤孝と明智光秀は森口(守口市)と森河内(東大阪市森河内)に砦を築いた。
塙直政は天王寺(大阪市天王寺)に砦を構えた。対する石山本願寺の僧らは木津(大阪市浪速区)と楼岸(東大阪市)を占拠して難波から船で行き来していた。
つまり、木津を攻め落とせば敵の通路を遮断することができ、信長は木津の攻略が急務と考えていた。そこで信長は、天王寺の砦を明智光秀と佐久間信栄に守らせ、大津伝十郎と猪子兵助を塙直政のもとへ向かわせて木津攻略の伝令を伝えさせた。
5月30日の早朝、先鋒隊の三好康長が根来衆(和歌山県岩出市の根来寺に属する僧兵※)・和泉衆(大阪府南西部の勢力)を率いて木津に出撃し、続いて塙直政が率いる大和衆(奈良県の勢力)・山城衆(京都府南部の勢力)が木津を攻めた。
※(僧兵とは、武装した僧侶。寺院が自衛のために下級僧侶や雑人などを武装させていた)
ところが、石山本願寺は楼ノ岸砦(大阪市中央区)から1万人の一揆衆を出撃させ、数千人の鉄砲隊が三好・塙の部隊を撃ち立ててきたのである。
思わぬ襲撃に織田軍は混乱したが、危機一髪のところで塙直政が応戦して体勢を立て直し、石山の一揆衆と数刻(数時間。2~3時間または5~6時間を指す)にわたって激戦を繰り広げた。
しかし、敵の攻撃は凄まじく、塙直政をはじめ丹羽小四郎、塙小七郎、塙喜三郎、蓑浦無右衛門など勇将が討死にし、三好・塙の部隊は崩れ落ちた。
勢いに乗じた一揆衆は天王寺の砦まで攻め寄せ、明智光秀、佐久間信栄、大津伝十郎、猪子兵介、近江衆(滋賀県の勢力)を包囲した。敗報を聞いた信長は直ちに軍を招集し、石山本願寺への総攻撃を決定した。