信長公記・9巻その3 「第一次・木津川口の戦い」
画像:毛利水軍の創始者「毛利元就」の肖像(毛利博物館)
木津川口の戦い
1576年8月9日(天正4年7月15日)※、安芸国(広島県西部)の児玉就英や粟屋元如、乃美宗勝や能島村上氏、能島村上氏らの水軍700~800隻が大坂の海に現れた。
※(信長公記の日付は誤記であり、正しくは8月7日(7月13日)と思われる)
<毛利水軍>
児玉就英、粟屋元如、桑原元勝、香川広景
<小早川水軍>
乃美宗勝、木梨元恒、井口景守、井上春忠、包久景勝
<宇喜多水軍>
富川秀安
<因島村上氏の水軍>
村上吉充
<能島村上氏の水軍>
村上元吉、村上景広、村上武満
<来島村上氏の水軍>
村上吉継
なお、安芸国の大船団の目的は、海上から兵糧を石山本願寺に届けることだった。
信長は船団を封じるために沼野伝内、沼野大隈守、沼野伊賀、真鍋七五三兵衛、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、花隈の野口氏、尼崎の小畑氏ら300隻を出撃させて木津川口(大阪市浪速区)を守備した。
しかし、敵は大船団であり、織田の水軍は厳しい海上戦を強いられた。一方、楼ノ岸砦(大阪市中央区)や穢田城(大阪市浪速区)からも一揆衆が出撃し、沼野伝内らが守る住吉(大阪市住吉区)の砦に攻め込んできた。
直ちに天王寺の砦から佐久間信盛の部隊が援軍に駆け付けて奮戦したが、海上戦で織田の水軍は壊滅状況にあり、敵の水軍は焙烙火矢(火薬を用いた兵器)を使って一気に攻め立てた。
その結果、沼野伝内、沼野伊賀、宮崎鎌大夫、宮崎鹿目介、真鍋七五三兵衛、尼崎の小畑氏、花隈の野口氏ら多くの織田の家臣が戦死した。安芸国の水軍は大勝し、石山本願寺に兵糧を届けて目的を果たした。
急いで信長は出撃したが、すでに大敗は決定しており、安芸国の水軍は兵糧を届けたのち、安芸国へと引き返していった。住吉の砦には新たに宮崎二郎七、保田久六、伊知地文大夫、礚井因幡守を入れて守備を固めさせた。
安土城の進捗状況
画像:安土城図(大阪城天守閣)
安土山の築城は着々と進んでおり、進捗状況は次のとおりである。(最上階が一重目となる)
- 天主(天守)一重目
石垣の高さは21.6メートル前後。石垣の内側は土蔵(蔵。保管庫)として使用 - 天主(天守)二重目
広さは南北に36メートル、東西に29メートル前後。柱は204本で柱の長さは15メートル前後、太さは45センチメートル、18センチメートルと40センチメートルの四角形の木を用いた。座敷の柱は布で飾って黒い漆を塗った。
西側の12畳間には狩野永徳の描いた梅の墨絵を飾り、絵の上下に金の装飾を施している。付書院(書院造りの座敷飾りの一つ)が設けられ、遠寺晩鐘の風景画を飾って盆山が置かれた。
四畳間の棚には鳩の絵、対面の12畳間には鵞鳥の絵が描かれたことから鵞の間と呼ばれた。鵞の間の次の部屋は8畳、続く4畳の部屋には雉の雛(キジのヒナ)の絵が描かれた。
南には唐(中国)の襖絵を施した12畳の間があり、その先に8畳間が続いた。東は12畳間に3畳間と御膳を準備するための8畳間が設けられた。
8畳間の隣には別の8畳間があり、ここも御膳の間として使われた。その奥には6畳の間が二つあり、納戸として使われた。どちらの部屋も金箔をあしらった絵が飾られた。
北には26畳の納戸、西には6畳間と10畳間、10畳間と12畳の間が続き、すべて納戸として使われた。納戸の数は全部で7つで、階段の下には金の燈籠が飾られた。
- 天主(天守)三重目
12畳の間は花鳥の絵で飾られており、花鳥の間と呼ばれた。一段上がると4畳間があり、花鳥の絵が描かれていた。南の8畳には賢人の絵と瓢箪から駒が出る絵で飾られた。
東は麝香(じゃこう)の間と呼ばれる八畳間と一段上に12畳間が造られた。続く8畳間には呂洞賓という仙人と殷の宰相ふゑつ(古代中国の王朝)の伝説を描いた絵が飾られた。
北は20畳間に仔馬の牧場が描かれた絵が飾られ、隣の12畳間には西王母(中国の仙女)の絵が描かれた。西側には幅の広い縁側を造り、ほかには24畳の納戸があり、その入り口には8畳の座敷が設けられた。
二重目の柱は全部で146本であった。
画像:復元された安土城の天主閣「模擬天主」(伊勢安土桃山文化村)
- 天主(天守)四重目
西に36メートルの板間を造り、岩に木々が生い茂る絵が飾られ、岩の間と呼んだ。8畳間には龍虎が戦う絵が描かれた。
南に21.6メートルの板間があり、竹林の絵が描かれたので竹の間と呼んだ。それとは別の21.6メートルの板間には松が描かれていたので松の間と名付けられた。
東の8畳間には桐に鳳凰の絵、続く8畳間には中国の故事「許由耳を洗えば巣父牛を牽いて帰る」(許由と巣父は古代中国の隠者)をもとにして許由と巣父の故郷の絵を描いた。
7畳間の小座敷は絵は描かずに金泥(金・銀を粉末状にして膠水(膠が入った水)で溶かした絵具)で塗られた。
北の12畳間は絵は無く、続く12畳間は手まり桜の絵が描かれた。ほか、8畳間は籠に入った鷹の子を描いた風景画が描かれたので御鷹の間と呼ばれた。使用された柱は全部で93本。
- 天主(天守)五重目
南北の破風口に、それぞれ4畳半の座敷を設け、小屋の段と呼ばれた。 - 天主(天守)六重
4つの間で成り立っており、8角形を模った(八角堂)階層である。
外柱は朱で塗られ、内柱は金箔で装飾された。室内を釈門十大御弟子(釈迦の主要な10人の弟子)や釈尊成道御説法(釈迦が悟りを開いて説法を行うまでの伝説)などの宗教絵を描き、縁には鬼の絵が飾られた。
縁輪の鰭板(端板。壁や塀の羽目板に用いる板)には鯱や龍を描き、高欄(手すり)には擬宝珠(伝統的な建築物の装飾。主に橋や神社、寺院の階段の 手すりの上に設けられている)が飾られた。
- 天主(天守)七重目
3つの間で成り立つ四角形の階層。すべての間が金色で、外観も金。四方の内柱には昇り龍と降り龍が描かれ、天井には天人御影向図(神様が人間界に姿を現したときの絵)が飾られた。
また、三皇や五帝、孔門十哲や商山四皓、七賢といった賢者の絵が描かれ、12個の火打ち金と宝鐸(堂塔の軒の四隅などに飾りとして吊るす大形の風鈴)を施した。
鉄製の狭間戸(小窓)は60も設置され、すべて黒い漆で塗られた。外柱・内柱どちらも漆と布で飾られ、その上から黒い漆が重ね塗りされた。
最上階の金具などは後藤平四郎(光乗)の手によって作られ、ほかにも京都や関西の職人らが仕上げた見事な細工だった。ほか6層に関しては京都の躰阿弥永勝が細工した金具が使われた。
築城の大工棟梁は岡部又右衛門で、塗師の筆頭は刑部氏、白金屋(銀細工師)は宮西遊左衛門が務めた。瓦については唐(中国)の一観が指導し、奈良の職人らが瓦を焼いた。
安土城の普請奉行(現場責任者または監督)は木村次郎左衛門が務めた。