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信長公記・9巻その4 「安土城の完成」

信長公記・9巻その4 「安土城の完成」

信長公記・9巻その4 「安土城の完成」
画像:復元された安土城の天主閣「模擬天主」(伊勢安土桃山文化村)

安土城の完成

広々とした奥深い山に安土城は築かれ、安土山の麓には城館(城郭と住居を兼ねた建物。安土山の麓には家臣らの屋敷が造られた)が連なるように建ち、陽の光が軒を並べる屋敷に照らされる光景は言い表せないほどの絶景だった。

城の西北から湖(琵琶湖)を見下ろし、舟の往来で賑わっていた。その風景は漁村夕照や遠浦帰帆といった瀟湘八景(古代中国の水墨画家)の絵を眺めているようだった。

また、湖の北には竹生島が浮かんでおり、険しい岩山のような多景島も凛々しく浮かんでいた。

朝と夕方には奥島(近江八幡市)の長命寺の鐘の音が聞こえ、安土山から比良の嶽や比叡山(滋賀県大津市~高島市にまたがる)、如意嶽(京都市左京区の大文字山)といった山々を遠望できた。

南の村々には田畑が広がり、その中央に三上山(野洲川の下流。現・野洲市)が立っていた。東の方角は三上山から観音寺山(近江八幡市)が連なり、麓には街道が通っていて人々の往還が途絶えなかった。

南には湖と繋がった入り江が広がり、麓の屋敷や城壁に当たって吹き抜ける湖の風の音が強く聞こえてきた。

そして、城の造りも豪華で優雅さを極めていた。御殿は唐様(中国の様式)で仕立てられ、将軍の御所のような景観で、玉石や瑠璃などを散りばめられ、まるで花の都と呼ぶにふさわしい美しさは職人の技で美の限りが尽くされていた。

信長には各地から金花の壺や松花の壺など名宝の品々が献上され、言うまでもないが上機嫌だった。

さらに、六角承禎(織田家に敵対する武将。六角氏15代目の当主)の家宝である真鳥羽根付き節無しの矢軸を布施三河守が探し出し、信長に献上した。このように、信長のもとへは各地から名宝や名物の品々が集まっていた。

話は変わるが、1573年8月2日(天正元年7月5日)に佐和山(滋賀県彦根市)で完成した大船は足利義昭を追放するときに一度だけ使用されたが、信長は「もう必要ない」と言って猪飼野甚介に命じて解体していた。

しかし、また新しく舟10隻を造るように命じていたのである。今は1576年11月(天正4年11月)であるが、まだ完成していなかった。

1576年11月24日(天正4年11月4日)、信長は陸路で瀬田(滋賀県大津市大萱)を通って京都に入り、妙覚寺(当時は京都市中京区二条衣棚。現在は上京区)に泊まった。

12月2日は別所長治、別所重宗、赤松広秀、浦上宗景、浦上小次郎らが信長のもとへ挨拶に訪れた。

信長内大臣

信長公記・9巻その4 「安土城の完成」
画像:織田信長の肖像(大雲院)

12月11日、信長は内大臣(朝廷の重職)の官職に就いた。

このとき、信長は摂家・清華家などの公家へ知行(ある特定の土地や領地の支配権を与える制度)を行い、朝廷にも金200枚、巻物、沈香(香木の一種)など贅沢な品々を献上し、返礼として正親町天皇から衣を拝領した。

信長は石山(滋賀県大津市)の世尊院で山岡景隆と山岡景猶から祝賀の御前を頂戴し、石山で鷹狩を楽しみ、15日に安土城へ帰還した。

吉良での鷹狩

12月29日、信長は吉良(愛知県西尾市吉良)で鷹狩を行うために佐和山(滋賀県彦根市)で一泊した。30日に美濃(岐阜)へ入り、1577年1月1日(天正5年12月13日)に清洲(愛知県清須市)へ到着。

吉良に入ったのは1月10日で、3日ほど滞在して鷹狩を楽み、多くの獲物を得た。14日に清洲へ戻り、18日(旧暦では12月30日)には美濃へ入って年を越した。

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