信長公記・2巻その2 「伊勢の平定」
画像:名物「富士茄子の茶器」(大正名器鑑)
名物・骨董の収集
この頃の信長は、もう金銀や米に不足はなく、唐物の茶器など"天下の名物"を集めており、それらを所蔵する主たちに献上するよう命じて回っていた。
大文字屋は初花肩衝、祐乗坊は富士茄子の茶入れ、池上如慶は蕪無(かぶらなし)の花入れなど、多くの名物が信長のもとに差し出された。松井友閑や丹羽長秀が使いを任され、献上した者たちには金銀や米が褒美として与えられた。
阿坂城の戦い
伊勢(三重)の木造城の城主・木造具政から内通を受けた信長は挙兵し、阿坂城(松阪市)に向け進軍し、1569年9月30日(永禄12年)に桑名(桑名市)に着陣した。
1日は鷹狩を楽しみ、2日には白子(鈴鹿市白子町)の観音寺まで軍を進めた。3日には木造に到着したが雨が続いたため、数日間は木造で滞陣することとなった。
10月6日、織田軍は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)を先鋒隊に阿坂城へ攻め寄せた。秀吉が塀際まで攻め入り、それに続いて織田軍が猛攻を仕掛け城は落ちた。阿坂城の兵らは降伏し、新しい城主として滝川一益が入った。
大河内攻め
画像:北畠具教の肖像(伊勢吉田文庫)
阿坂城を落とした織田軍は伊勢の奥深くへ進み、7日には北畠具教、具房の親子が立て籠もる大河内城(松阪市大河内町)まで進軍した。まず周辺の地形を偵察し、大河内城から東の山に陣を構え、夜中に町を焼き払った。
8日の朝に攻囲の陣を固め、配置は次のように信長が指示した。
城の北
斎藤新五、坂井政尚、屋頼隆、簗田弥次右衛門、中条将監、磯野員昌、中条又兵衛
城の南
織田信包、滝川一益、稲葉一鉄、池田恒興、和田新介、後藤喜三郎、蒲生賢秀、永原筑前、永田景弘、青地茂綱、山岡景隆、山岡玉林景猶、丹羽長秀
城の東
柴田勝家、森可成、山田三左衛門、長谷川与次、佐々成政、梶原平次郎、不破光治、丸毛長照、丸毛兼利、丹羽源六、不破彦三
城の西
木下藤吉郎、氏家ト全、安藤守就、飯沼勘平、佐久間信盛、市橋長利、塚本小大膳
織田軍は城を囲み、四方に鹿垣(枝のついた木や竹で作った垣や柵)を張って通路を閉ざし、次の者たちが鹿垣の中を巡回して回った。
前田利家、河尻秀隆、湯浅甚介、菅谷長頼、塙直政、福富秀勝、中川八郎右衛門、木下雅楽介、松岡九郎二郎、生駒平左衛門
10月17日、信長は稲葉一鉄、池田恒興、丹羽長秀らに城の西搦手口から夜襲を仕掛けるよう指令した。それら三人の武将は夜中に兵を連れて三手に分かれ、指示の通り攻撃を開始した。
しかし、突然に降り出した雨で鉄砲が使えなくなり、苦戦を強いられてしまう。池田恒興の攻口では馬廻の朝日孫八郎と波多野弥三が戦死し、丹羽の兵でも近松豊前や神戸伯耆、神戸市介らが戦死した。
織田軍は一晩で有能な武将や兵を20人余り失ってしまった。18日に信長は方針を変え、多芸谷(津市美杉町)を焼き払って田畑の作物を薙ぎ倒すように滝川一益へ指示した。
この策は効果があり、大河内城で餓死する者が出始めると信長に降伏するという申し出が北畠親子から届く。信長は息子の織田信雄に北畠の家督を譲ることを条件に降伏を受け入れた。
11月12日、北畠親子は大河内城を滝川一益、織田忠寛に明け渡し、笠木、坂内(ともに松阪市)へと退去した。その間に信長は田丸城(玉城町)など伊勢の諸城を破却、落城させた。
関所の廃止
伊勢を平定した信長は伊勢の国内にある関所を廃止し、関銭(関所を通るときに払う金)の徴収を固く禁じた。
伊勢平定
11月13日、信長は山田(伊勢市)に入って堤源介の屋敷に泊まり、翌日に伊勢内宮・外宮(伊勢神宮)、朝熊山で参詣した。帰還のために伊勢を15日に出発し、16日には上野(津市河芸町)に着いた。
ここで信長は信雄を大河内城主として入城させ、世話役に織田忠寛を就かせ、安濃津と渋見(どちらも津市)、木造の城は滝川一益に管理を任せ、上野は織田信包に任せた。
その後、信長は菰野(三重郡菰野町)から鈴鹿山脈を越えて近江へと向かい、17日には菰野の千草に入ったが大雪で足止めされてしまったが、18日に近江へ入り市原(甲賀市甲南町)に泊まり、翌日に京都へ入った。
入京した信長は足利義昭に伊勢の平定を報告し、数日間ほど滞在したのち、11月25日に岐阜城へ帰還した。