深く考えた決断なら後悔しない
画像:黒田官兵衛の肖像(福岡市博物館)
隆景と黒田官兵衛に親交があったことは、筑前黒田氏(官兵衛は播磨の出身だが豊臣の時代に福岡藩の初代藩主となる)の公式記録「黒田家譜」からも確認できます。
黒田家譜には隆景の名も時おり登場しており、友好的な内容であることから官兵衛にとって隆景が他の武将と一線を画す特別な存在であったことが垣間見えます。
また、隆景の主君である毛利輝元は豊臣政権において五大老の一人でしたし、豊臣の重臣だった官兵衛とやり取りを行うことは少なからずあったと考えられるでしょう。
そうした二人の関係性を示すエピソードとして、こんな話があります。
あるとき官兵衛は隆景に、「私は決断が早いと褒められるが行動したあとに後悔することが多い。 しかし、隆景殿には、そのような失敗が見受けられない。何か秘策でもあるのでしょうか」と尋ねました。
すると隆景は、
「黒田殿は感性が鋭く、一を聞いて十を知ることができる。
私は賢くないので注意深く考え、一から十まで納得したうえで決断するので後戻りすることはない」 |
※一を聞いて十を知る・・・物事の一端を聞いただけで全体を理解するほど賢いこと
と答えたそうです。つまり、「もっと考えてから決断することも大切」とアドバイスしたわけです。
しかし、一方では、こんな逸話もあります。
秀吉が隆景の才覚について、「天下の政治を任せられるのは小早川隆景と直江兼続、鍋島直茂の3人だけだ。でも、天下を取るには隆景は度胸が欠けており、兼続は知恵が足りず、直茂は器量が乏しい」そう言ったそうです。
思慮深い隆景の性格を、大胆さがない、決断までの時間が長いと感じたのでしょう。それほど隆景は注意深く物事を考えてから決断する人物だったということです。
幻となった6人目の大老
画像:毛利一族の賢将「小早川隆景」(著・童門冬仁)
五大老とは豊臣政権の末期に5人の大名が政務を担った制度で、徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家が任命されました。しかし、もう一人大老に就任した人物がいました。
その6人目の大老が、小早川隆景。つまり、本当は六大老だったのです。隆景の能力と人格に厚い信頼を寄せていた秀吉は西日本の政務を隆景に任せることを決め、隆景は6人目の大老に就任します。
また、ほかの大老は独立した大名でしたが、隆景は輝元の家臣であり、独立した大名ではありませんでした。いかに隆景の能力が秀でていたか、周囲から認められていた人物だったかがわかりますよね。
では、なぜ六大老ではなく五大老という認識が定着しているのでしょうか。本来は豊臣政権の政務を担う六人の大老として公表される予定でしたが、その制度が整う前に隆景が他界したからです。
これは余談ですが、秀吉が隆景を認めていたことを示す裏付けとして、秀吉は自分の息子である羽柴秀俊を隆景と養子縁組させ、隆景に育てさせ、秀俊は秀秋へと名前が変わり、隆景の死後はが小早川家の2代目となりました。
そう、関ヶ原の戦いでお馴染みの小早川秀秋ですね。
さて、今回ご紹介した小早川隆景の言動は、通説や逸話、軍記物語を基にした文献「名将言行録」や「陰徳太平記」などを参照しているため、隆景が残した言葉という保証はありません。
また、今回は当時の言語を現代語に置き換えて解釈しています。もし、通説が後世の創作だったとしても隆景の人物像が基になっている言葉や行動であり、"その言動に見合う人物だった"ということが言えるでしょう。
思慮深く、柔軟に物事を捉え、決めたことは貫き通し、決断力や判断力が優れていた小早川隆景。秀吉から厚い信頼を寄せられ、黒田官兵衛が"手本"にしたという逸話もあるくらいの知将でした。
毛利家の中でも群を抜いて知略に秀でていた隆景の「考え方」や「言動」から現代にも生かせる「教訓」や「考え方」を紹介しましたが、ぜひ参考にしてみてはいかがでしょうか。