皆さんは「大岡裁き」という言葉をご存知でしょうか。これは江戸時代の名奉行と呼ばれた大岡忠相という人物が実施したと伝えられる裁判様式のことです。
残念ながら史実で「大岡裁き」が行なわれたという記録はないのですが、公平で人情味あふれる裁判を指してこう呼ばれるようになりました。
しかし、皆さんは実際のところ江戸時代の裁判がどのように行われていたかをご存知でしょうか。よく記録を振り返っていくと、時代劇のそれとはまた違った江戸時代の裁判記録を見ることができます。
事件を起こした場所によって裁く役所が異なる
我々の生きる現代日本では、裁判所は大きく分けて「最高裁判所」「高等裁判所」「地方裁判所」の三段階に分かれています。裁判の流れは基本的に三審制で進行していき、重大事件は最高裁にまで持ち込まれるのが一般的です。
一方、江戸時代の「裁判所」に当たる組織は、現代の最高裁にあたる「評定所」のほかに、事件を起こした場所によって非常に多くの裁判所が用意されていました。
例えば、江戸以外の各藩で事件を起こした場合は、藩が独自のシステムを用いて犯罪者を裁きました。しかし、一方で将軍に仕える立場の大名や重臣が事件を起こした場合には評定所預かりの案件となります。
他にも、江戸の町で事件を起こせば町奉行所が、各地の寺社で事件を起こせば寺社奉行がというように、様々な機関に司法権が委任されていたといえるでしょう。もっとも、前例のない困難な事件や重罪についてはほとんどが評定所預かりとなったため、重要事件については評定所が担当していたと考えてもよいでしょう。
裁判はかなり緻密に行なわれていた
先に述べた「大岡裁き」に代表されるように、江戸時代の裁判は「法律よりも人情や感情が優先されている」というイメージをお持ちの方も多いかもしれません。実際、時代劇などではそういったシーンが描かれることも少なくないでしょう。
ところが、当時の裁判記録を振り返っていくと、量刑を出す際には法律の厳格性や論理性を重視していたことが分かります。江戸時代の法律にあたるものは『公事方御定書』というもので、裁判の担当者はこれを読み込んで刑罰を決めていました。
さらに、時代劇のように「トップによる鶴の一声」で刑罰が決まるということは稀で、実際は幕府の権力者である老中から町奉行所の役人までが各自の主張をぶつけて合議することによって量刑を導き出していたのです。
ただし、そもそもの問題として『公事方御定書』は庶民に公表されておらず、それゆえに「何をしたら罪に当たるのか分からない」という不安を抱えたまま庶民は生活することを余儀なくされました。確かに裁判そのものは厳密に行われていたのですが、守るべき法が一般に公開されていない、というのは現代の感覚からすると理解できないかもしれませんね。