刑罰は身分によって異なるものもあった
裁判がしっかりと行われていたということが意味するのは、罪の大小によって様々な刑罰が用意されていたことを意味します。我々がイメージしがちな刑罰といえば「切腹」や「打ち首」といった「死刑」ばかりですが、それ以外にも多種多様な罪が存在しました。
例えば、そもそも「死刑」といっても上記のような死に方が許されていたのは武士だけであり、庶民の場合は「はりつけ」や「火あぶり」によって処刑されました。
もちろん死刑以外にも罪は多く存在し、遠方の島へと一定期間流される「追放」や身体を痛めつける「身体刑」および財産を没収される「財産刑」などが用意されていました。当時らしいものとしては、改易や非人手下(身分を奪われる)といった「身分刑」や、人前で晒され、時には奉行所でお叱りを受けるというような「名誉刑」などがあったようです。
我々からしてみれば「奉行所でお叱りを受ける」だけで罪を償ったことになるのであれば喜んでしまうところですが、当時は人前で叱られるということは人間の尊厳を傷つける行為と捉えられていたため、罪として成立したのです。
極力死刑は回避させようという動きがあった
やはり、江戸時代の裁判では「役人側が進んで死刑を執行しようとしていた」というイメージを抱くかもしれません。しかし、実際に江戸時代で死刑を執行するには非常に複雑なプロセスを必要としましたし、何より役人たちも死刑の適用には相当慎重だったようです。
まず、死刑の沙汰を下すためには老中の許可を得なければなりませんでした。老中は申し出があった死刑の妥当性について評定所で議論させたのち、それでも死刑を適用するのであれば形式的にではありますが将軍の許可を必要としました。
これは、現代であれば死刑判決を裁判官が出すことができると考えれば、むしろ今よりずっと「死刑」に対しては慎重な姿勢が取られていたことを理解できるでしょう。このように、我々は江戸時代の裁判を誤解している点が非常に多いのです。