めちゃ有名なのに「諸説あり」が多すぎる人物3選(江戸時代編)
画像:楊斎延一・画「本能寺焼討之図」(国立国会図書館)
未だ解明されていない謎が多く存在する日本史。たとえば、本能寺の変や坂本龍馬の暗殺など、誰もが知っている出来事なのに「真実は謎だらけ」という不可解な史実も少なくありません。
さらに、人物そのもの(実態)が「謎」というケースもあります。実在したのは確かだろうが出生や生涯など出自が不明な人物も意外と多いんですよね。
そして、そういった人物に付き物なのが「諸説あり」。そこで今回は、めちゃ有名なのにミステリアスすぎる歴史上の人物として、江戸時代から3名をピックアップしました。
東洲斎写楽
画像:写楽「三代目大谷鬼次・江戸兵衛」の模造画
三代目大谷鬼次・江戸兵衛の作者でお馴染みの東洲斎写楽。江戸時代の中期に活躍したとされる浮世絵師で、世界的にも有名な肖像画家です。
そんな著名な人物なのに、写楽は出生どころか生涯も不明な点だらけなんです。それもそのはず。写楽は10ヶ月で約150点の浮世絵を仕上げたあと、突然、消息不明になったんですよ。
どこからともなく現れて凄まじい勢いで多くの肖像画を描き上げたあと、突如として姿を消した幻の浮世絵師。作品が残されているだけで、写楽に関する史料は伝承的な記録のみです。
江戸時代にも名は知れていたのですが、大正時代にユリウス・クルト(ドイツの著名な美術家)が「レンブラントやベラスケスに並ぶ三大肖像画家だ」と写楽を評価したことで再び名が広がりました。
ミステリアな人物ゆえに囁かれる説も多く、「写楽と葛飾北斎は同一人物」という説や「能役者の斎藤十郎兵衛」といった説など、未だに写楽の実態を裏付ける史料は見つかっていません。
写楽とは一体何者だったのか・・・を追い求める歴史研究家も多く、謎の浮世絵師「写楽」は間違いなくミステリアスすぎる江戸時代の人物にランクインしますね。
また、写楽が描いた肖像画および浮世絵は国内の美術館や博物館だけではなく、ニューヨークのメトロポリタンやカンザスのアトキンズなど海外の美術館にも多く原画が展示されています。
奇才と呼ばれ、歴史に名を残した東洲斎写楽。実態が不明な画家であるにも関わらず日本では文化遺産登録されており、いろんな意味で次元を超えた存在ですよね。
南光坊天海
画像:南光坊天海の像(川越大師 喜多院)
安土桃山時代から江戸時代の初期にかけて存命したとされる天台宗の僧侶、南光坊天海。言わずと知れた徳川家康の側近で、107歳まで長生きしたと言われる(134歳という説もある)謎多き人物です。
1536年の生誕とされていますが、実際のところ出生に関して不明な点が多々あり、また、家康との関係性を深めるまでの半生において不明確なことも多く、様々な説が囁かれています。
たとえば、生き延びた明智光秀が天海として余生を過ごしたという「光秀・天海、同一人物説」や、12代目の足利将軍・足利義晴の息子という「足利家の子孫説」など、まさにミステリアスな僧侶。
とはいえ、大阪の陣の引き金となった方広寺鐘銘事件にも深く関わっていたり、幕府の参謀として朝廷との仲介役になったりするなど、家康から絶大な信頼を寄せられていた重要人物なわけです。
また、家康は晩年になると身の回りの整理や葬儀について天海に遺言を託したそうです。
家康の死後は徳川家光に仕え、江戸の都市づくりにも協力し、さらには、幕府の支援によって天海は大蔵経(経典を集成した書)を完成させるなど、徳川と強いつながりを持っていたことがわかります。
その証拠に天海は没後に家康と同じ日光東照宮に埋葬され、なお、天海の墓所がある慈眼堂は国の重要文化財に指定されています。知れば知るほど謎が膨らむ南光坊天海ですね。