天草四郎
画像:天草四郎時貞の像(原城本丸跡)
江戸時代の初期(1637年)、天草(熊本県天草地方)と島原(長崎県南東部の島原半島)にて数万人の隠れキリシタンが一揆を起こし、徳川幕府が威信をかけて制圧した天草・島原の乱。
天草・島原は、もともとキリシタン大名が治めていた地域だったのでキリスト教も盛んでしたが、時代が変わり新しい藩主になるとキリスト教の弾圧が激しくなり、拷問や処刑が徹底されました。
また、領民たちは過酷な重労働に加え重税を強いられ、我慢の限界に達した隠れキリシタンの脱藩浪人らは領民たちと団結し、島原藩と唐津藩に対して一揆を起こしたわけです。
序盤は一揆勢(隠れキリシタンの軍)が幕府の支城を攻め落とすなど優勢でしたが、4ヵ月続いた戦いは松平信綱が率いる幕府軍の猛攻によって一揆勢が全滅しました。
その一揆勢を率いた総大将が天草四郎と言われています。しかし、歴史的かつ大規模な一揆の主導者であるにも関わらず、はっきりしない点が多々あるミステリアスな人物なんです。
一揆の中心人物らに関する出自は明確なのに、四郎については出生や島原の乱が起こるまでの生い立ちに関して第三者による証言が記録された史料が主で、明確なことは分かっていません。
つまり、「諸説あり」が多い人物なんです。なかでも衝撃的な説が、2015年に熊本大学名誉教授の吉村豊雄氏が提唱した「天草四郎の実態は複数の少年が集まったユニット名」という見解。
天草四郎とは個人の名前ではなく、複数の少年から成り立つグループの総称と発表しました。
幕府の記録にも、一揆後に四郎と思われる首を幕府が回収したところ、服装や背格好などが似た複数の少年の首が集まったと記されており、そういった裏付けをもとに提唱したようです。
さらに、ほかにも「天草四郎は豊臣秀頼の息子(豊臣秀吉の孫)だった」という説を唱える研究者もいて、次のような興味深い見解が示されています。
画像:豊臣秀頼(養源院)
秀頼は1615年に起きた大坂夏の陣で敗北し、大阪城で自害したとされているが、実は城から脱出して鹿児島に逃げ、生き延びたあとに産まれた息子が後の天草四郎という驚きの説。
当時、江戸に幕府が開かれた直後、大坂では「花のようなる秀頼公を真田が連れて退いた薩摩に」と口ずさむ町人もいたそうで、一方、鹿児島には真田幸村と豊臣秀頼の墓が実際に存在しているという不思議な繋がりがあります。
そして、島原の乱で四郎が掲げた旗印(馬印)には「瓢箪(ひょうたん)」が描かれていたなど、思わず鳥肌が立ってしまいそうな一致が多いんです。
さて今回は、写楽、天海、天草四郎の3名を紹介しましたが、やっぱりミステリアスな人物たちですよね。
タイムスリップしない限り真実を明らかにするのは難しいでしょうが、いろんな意味で「曖昧」な要素があるからこそ、歴史にロマンが生まれるのかもしれません。