いつから軍師と呼ばれた?
画像:黒田如水(福岡市博物館)
軍師と呼ばれる代表的な面々をザっと並べると、
- 大河ドラマでお馴染みの「黒田官兵衛」
- 啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)の「山本勘助」
- 三木城の兵量攻めを秀吉に提案したり稲葉山城を17人で奪った「竹中半兵衛」
- 伊達政宗の教育係であり、槍の名手でもある「片倉景綱」
など、名軍師と呼ばれる武将の名が挙がりますが、彼らが軍配者であったことを示す史料はありません。なぜ、武将である彼らが軍師の位置付けになったのか、それは江戸時代に流行した軍記物語が発端となっているようです。
江戸時代に徳川幕府は儒学者(孔子を祖とする中国の道徳学を儒教といい、それを学び、普及させる者)との結びつきが強くなり、儒学者が理想の家臣として称えていたのが中国三国時代の諸葛孔明でした。
諸葛孔明といえば兵法や学術に秀で、組織の統制や内政を指揮し、生涯において主君である劉備に忠実に仕えた人物です。そうした思想と江戸時代の「軍学」が繋がり、「軍記物語」が誕生することになります。
軍学とは、古来の兵法をもとに戦略や戦術を研究する学問ですが、すでに江戸時代は合戦など行われておらず、教える立場の人間も戦場に出たことがないので説得力がなかったわけです。
そこで、先祖である武将の名前を軍学に取り入れて権威を示しました。
やがて、そうした武将たちが軍記物語の中で英雄のような扱いで描かれるようになり、諸葛孔明のような「主君を支えた」や「参謀的な策を考えで」とか「兵法や戦術に秀でていて」など、組織の統率に欠かせない軍師という位置づけになっていったのです。
たとえば、越後流軍学に登場する上杉謙信の家臣・宇佐美定満や、甲州流軍学なら武田信玄に仕えたとされる山本勘助などが軍記物語で軍師の位置づけになった武将ということになります。
そのほか、黒田官兵衛や竹中半兵衛、片倉景綱など先述したように名軍師と呼ばれるほとんどの武将は軍記物語が発端となって軍師という人物像に書き換えられたと言えるでしょう。
やがて、軍記物語に尾びれ背びれがついて話が大きくなり、ずば抜けた能力を持つ武将として広まっていったようです。そして、江戸の歌舞伎や演武、現代ならドラマや映画といった感じで、軍記物語の軍師像が世間に定着していくわけです。
戦国時代に「軍配者」はいたの?
画像:太原雪斎の人形(紫峰人形美術館)
一方、戦国時代に軍配者の役割を担っていた人物も確認できます。
今川義元に仕えた太原雪斎は相談役として今川義元を一人前の武将に育て上げ、島津義久の家臣・川田義朗は島津家のメンタルトレーナー的な役割でしたし、毛利家に仕えた安国寺恵瓊は外交に手腕を発揮しました。
ほかにも、大友宗麟に仕えた角隈石宗や、北条氏3代(北条氏康、氏直、氏政)に仕え、北条が滅したあとは豊臣秀吉に、関ヶ原の戦い以降は徳川家康に仕えた板部岡江雪斎も軍配者として有名な僧侶です。
彼らは本来の役割である天文学や陰陽道などの占術、兵法や統計といった学術を用いて物事の「吉凶」を主君にアドバイスし、不吉な兆候があればお祓いや厄払いも行い、また、外交(所領国以外の国と交渉したり内政に関わったり)に重宝された人物でもあります。
戦場で戦うことはありませんが、合戦で家臣や兵士らが討ち取ってきた首を主君や大将が実験(首実験)したあと、死者が怨霊にならないよう首を弔う儀式も軍配者が行っていました。
今回は、ざっくりと軍配者についてお話ししましたが、軍師と軍配者の違いについてもお分かりいただけたと思います。
結果、軍師とは、江戸時代の軍学が発端となった"理想の人物像"であり、軍記物語によって世間に広まっていったヒーローということになります。とはいえ、名軍師と呼ばれる武将たちが劣っていたわけではありません。
彼らが組織の運営に欠かせない重要な人物でったことは間違いないでしょう。軍師という誤解を解き、あらためて軍配者という役割を知っておくと、これまでとは少し違った観点で戦国時代を理解できるかもしれませんね。