邪馬台国って何?
画像:竪穴住居(吉野ケ里遺跡)
西暦元年あたりの日本列島は100くらいの小国(地域)にわかれていたようで、もっとも栄えていたとされる国が「吉野ヶ里(佐賀県の吉野ヶ里丘陵)」だったそうです。
※現在の吉野ケ里遺跡。世界遺産に登録されている
それら国について後漢書 では「小国が乱立していた」と記されており、その小国の一つが「邪馬台国」ですが、魏の視点では邪馬台国が倭という認識になると考えられます。
邪馬台国のほかに、狗奴国、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記されている |
なお、魏志倭人伝には邪馬台国について「女王国」とも記されており、その女王が「卑弥呼」という女性だったことも魏志倭人伝には記されています。
もともと邪馬台国の国王は男でしたが80年も内乱が続いたため、人々は新しい首領として西暦189年に卑弥呼を邪馬台国(=倭国)の女王にしたそうです。
邪馬台国は30の小国を支配下に置いていた国で、魏志倭人伝には邪馬台国に関する記述が1800文字以上にわたって残っており、次のように記されています。
内乱を鎮めるために邪馬台国は卑弥呼を女王に選び、卑弥呼は占術や祈祷を用いて国の行く末を見定め、自分の弟を通して政治を安定させている |
※翻訳はオリジナルです
卑弥呼は一度も人前に姿を現したことがなく、魏伝によると1000人の侍女(雑用や身の回りを世話する女性)を従え、実の弟が卑弥呼の代わりにお告げを伝えたり政治の指揮を行っていたようです。
謎多き卑弥呼の正体ですが、さらに謎なのは「どこに邪馬台国が存在していたのか」も解明されていません。これまでの研究では、近畿もしくは九州という説が有力みたいですね。
邪馬台国って何処なの?
なぜ九州と近畿が有力説とされているのかといえば、魏伝には魏から邪馬台国への"行き方"も記されており、記述通りに距離と方角を合わせると九州に近い太平洋の海上(沖)に行き着くそうです。
帯方郡から狗邪韓国まで陸路で7000里進み、 この時点で帯方郡からの距離10500里 伊都国(糸島半島)から奴国を東に陸路で100里進み、 距離に換算すると計およそ12000里 |
海の上に邪馬台国があるわけがない・・・。そこで争点となったのが、方角が間違っているのか、距離が間違っているのか、という問題。そもそも記述が正確でないという意見もあるそうですが・・・。
・方角は違うけど距離は合っている・・・九州説
・距離は違うけど方角は合っている・・・畿内説
九州説の一つに吉野ヶ里遺跡も邪馬台国の候補として研究が進められていますが、今のところ謎です。
邪馬台国の場所を探す前に、そもそも投馬国の位置も未定ということなので・・・。要するに、不弥国から海路で近畿方面に向かったのか、それとも九州を南下したのか、という問題があるようです。
ちなみに、九州説の邪馬台国(推測地)は、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群、佐賀平野(吉野ケ里)や筑紫平野、福岡平野など様々な説が飛び交っています。
一方、畿内説も同様に、琵琶湖の湖畔や奈良県の纏向遺跡、投馬国を但馬(兵庫)と推測する説や大阪府の数か所に痕跡があるなど、いずれも確証がないので未だ解明の見通しがついていない状態です。
ちなみに、上記の行程(行路)を見ても分かるように、弥生時代には邪馬台国のほかにも伊都国や奴国、一支国や投馬国などの国もあったわけで、それらを後に統一したのがヤマト王権なんですね。
弥生から古墳時代へ、そして飛鳥時代へ
画像:大山古墳
卑弥呼が没して台与が邪馬台国の新しい女王となり、台与が晋に使いを送ったあたり(西暦266年頃)に弥生時代が終わると、そこからヤマト王権の時代(古墳時代)に入ります。
中国の文献では「台与が晋に使いを送った」という記録が邪馬台国に関する最後の記述となり、それ以降の動向を知ることができません。(この頃の中国は南北朝時代で世相が慌ただしかったからと考えられる)
古墳時代になると乱立していた国をヤマト王権が統一し(西暦400年頃)、九州・中国・四国・中国・近畿・中部・関東・山形県の南部を統合して倭国(大和)と称しました。
※ヤマト王権の日本統一は飛鳥時代(西暦630年前後)という説もある。ヤマト王権の成り立ちも不明確で、統一するまでの過程やヤマト王権の実態そのものが謎となっている
さらに、飛鳥時代に入ると大化の改新(西暦645年)や壬申の乱(西暦672年)を経て、西暦686年頃に倭が日本という国名に変わります。(天武天皇の即位が節目とされる)
そして、一説によると、この頃(天武天皇の即位)から大王ではなく「天皇」と呼ばれるようになったようです。
飛鳥時代には諸国の歴史書を集めて天皇記や帝紀、旧辞などの書物が編纂され、それらを基に古事記や日本書紀が平安時代に完成するという流れになります。
ちなみに、東北地方と北海道は蝦夷(えみし)の領地で、日本列島が一つの国として完全に統一されたのは江戸時代なんですよ。
結局は「諸説あり」だらけの弥生時代
画像:卑弥呼の模型(大阪府立弥生文化博物館)
弥生時代って「どんな時代?」と聞かれれば「諸説だらけの時代」と答えるのが正解ですが、それでは元も子もないですし、やっぱり卑弥呼や邪馬台国の話は無視できないわけです。
弥生時代の年表を略式でおさらいすると、
紀元前800年頃・・・水稲耕作や金属器が倭国に伝わり、弥生文化が始まる
紀元前660年・・・神武天皇の即位(皇紀元年)
紀元前29年・・・11代目の天皇に垂仁天皇が即位
西暦元年・・・倭国では100の小国が乱立していた
西暦57年・・・倭国の奴国の国王が後漢の皇帝から金の王印を授かる
西暦107年・・・倭国が後漢に使節を派遣
西暦147年・・・倭国(邪馬台国)で内乱が起こる
西暦189年・・・卑弥呼が邪馬台国の女王になる
西暦239年・・・卑弥呼が魏に使者を送る
西暦248年・・・卑弥呼が没し、台与が新しい女王になる
西暦266年・・・台与が晋に使いを送る(古墳時代の始まり)
そもそも、当時の日本には文字が存在せず、弥生時代に関する記録(文字による伝承)は古代中国の文献(後漢書や魏志倭人伝)で知る意外に方法がないという前提が大きなポイント。
今後の研究で一つでも多くの謎が解明されることに期待したいですね。