注目の記事ピックアップ!

戦国時代でスカウトしたい「佐竹義重」

戦国時代でスカウトしたい「佐竹義重」(鉄砲隊)

戦国時代でスカウトしたい「佐竹義重」(鉄砲隊)
画像:佐竹義重の肖像(佐竹史料館)

佐竹氏は源義光を祖とする平安時代から受け継がれてきた名門で、古くから常陸(茨城県)を所領する由緒ある家柄です。佐竹氏18代当主の佐竹義重は、これまでの情勢と一変した戦国時代において何かと苦労しました。

生没 1547年生まれ 1612年死去
出身 常陸国(茨城県)
主君 豊臣秀吉から豊臣秀頼
親族 父:佐竹義昭 正室:宝寿院 兄:佐竹義尚 息子:佐竹義宣
特徴 鬼ノ義重 関東一の鉄砲隊 伊達政宗と仲が悪い

腕っぷしが強く、北条家の兵7人を一度に斬り倒したことから「鬼の義重」という異名がつき、武芸だけではなく持ち前の知性で策略家としても名の知れた武将でした。

義重は15歳で家督を継ぎ、上杉謙信と親交を深めて、小田家や武茂家など関東の城を支配下に治めていました。しかし、1565年に父の義昭が他界すると、佐竹氏の常陸は反勢力のターゲットになってしまいます。

さらに上杉謙信が他界し、北からは伊達政宗が敵意を示し、南からは北条氏政がチャンスを狙っており、油断できない状況でした。まず、義重は政宗の動向に目を見張り、伊達家と対立しそうな大名や武将に連絡をとります。

というか、ほぼ東北の大名らは政宗に不満を抱いており、義重は伊達家に反感をもつ大名と同盟を結び、同盟軍を結成して1585年に伊達家を攻めました。(人取橋の戦い)

しかし、同盟は上手くいかず、伊達軍を相手に奮戦したのですが義重は退却を決意し、政宗の勝利で終戦。一説によると、義重の家臣が本拠地の太田(茨城県常陸太田市)で不穏な動きを見せたので処理するための退却だったとか。

関東一の鉄砲隊と強力な家臣団

戦国時代でスカウトしたい「佐竹義重」(鉄砲隊)
画像:ぎふ信長まつり「鉄砲隊・模擬射撃の実演」(岐阜市観光課)

1562年に佐竹氏を継いだあと、義重は金山の掘削に取り組んでおり、順調に資金を確保していくと鉄砲を仕入れ、3000挺を超える鉄砲隊を組織したとされています。のちに関東一と称される佐竹の鉄砲隊です。

1584年に勃発した沼尻の戦いでは小田原北条家(後北条氏)と戦いましたが、8600挺の鉄砲で対戦したそうで(後世で誇張されていると思います)、義重の鉄砲隊は佐竹氏が北関東で主導権を握れた要因の一つでした。

沼尻の戦いは8万の小田原北条軍に対し、佐竹軍は2万の兵で戦って氏政の常陸侵攻を防ぐことに成功しています。また、義重は強力な家臣団を従えており、それも佐竹軍の強さを誇る要素でした。

<佐竹氏の家臣団>
佐竹義久、佐竹義斯、佐竹義憲、岡本禅哲、岡本顕逸、和田昭為、小田野義忠
車斯忠、梅津憲忠、梅津政景、人見藤道、真崎重宗、戸村義国、小貫頼久
今宮義通、真壁氏幹、梶原政景、船尾昭直、小野崎従通、江戸忠通

もし私が敏腕なヘッドハンターで佐竹義重をスカウトしたら、もれなく屈強な家臣団と大勢の鉄砲隊もついてくるわけです。こんな"特典"見逃すわけにはいきませんね。

ページ:

1

2
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 織田信長と豊臣秀吉のマネジメント能力(秀吉編)

  2. 真田氏のプライドを懸けて挑んだ真田幸村「大坂の陣」(前編)

  3. 人たらしの天才、豊臣秀吉の”褒め上手”に学ぶ「人を動かす」テクニック(後編)

  4. 戦国時代でスカウトしたい「島左近」

  5. 関ケ原で火花を散らした4人の武将「その子孫たちは今?」石田三成の数奇な血脈を辿る

  6. 【有力説】本能寺の変は本当に明智光秀の単独犯なのか?それとも黒幕がいるのか?

  7. 真田氏のプライドを懸けて挑んだ真田幸村「大坂の陣」(中編)

  8. 織田信長と豊臣秀吉のマネジメント能力(信長編)

  9. 人たらしの天才・偉人豊臣秀吉の”褒め上手”に学ぶ「人を動かす」テクニック(前編)

最近の記事

週間人気記事ランキング

  1. 登録されている記事はございません。

全体人気記事ランキング

おすすめ記事

PAGE TOP