佐竹義重の外交手腕
画像:戦国BASARA3「佐竹義重」©カプコン
上杉謙信と友好関係を築いて小田氏と小田原北条家に対抗していた義重でしたが、謙信が小田原北条家と同盟(越相同盟)を結んだことで義重は謙信に不信感を覚え、謙信と敵対する武田信玄と密かに友好関係を築きます。
義重は謙信と信玄との友好関係を保ちながら常陸の中南部に勢力を拡大していき、領土を拡大するにつれて政宗との対立を激化させていくことになります。
一方、小田原北条家(北条氏康)の勢力は常陸の一部と下野(栃木)まで進出しており、小山秀綱は居城である祇園城を攻め落とされて義重に救援を求めました。
謙信が他界し、保険を失った義重は常陸と下野の制圧を一旦断念し、今度は天下統一を目指して勢力を拡大していた秀吉と友好関係を築き、小田原北条家にプレッシャーを与えたのです。
そして、下野の沼尻で小田原北条軍と戦い、陸奥への侵攻を阻止。その一方で政宗との対立も深まっていました。
そんなこんなんで秀吉が小田原城攻め(小田原征伐)を決行すると、佐竹氏は豊臣の家臣として従軍。ご存知の通り、北条家は敗北。秀吉が天下統一を果たしたことにより、丸く収まったわけです。
とはいえ、そこに至るまでの義重の外交手腕と危機管理には目を見張るものがあります。それに加え、関東一の鉄砲隊や個人としての戦闘能力、屈強な家臣団を従える器量など、やはり歴史に名を残す名将と言ってもよいでしょう。