■小牧城(小牧市堀の内1丁目1番地)
■清洲公園
住所:愛知県清須市清洲3丁目7-1
見どころ:信長の銅像・清洲城跡を示す顕彰碑(石碑)・清洲城の石垣
熱田神宮「信長塀」
桶狭間に出陣の途中、信長は熱田神宮に立ち寄って戦勝祈願をしたと言われています。今川義元を討ち無事に勝利を得ると、戦勝祈願のお礼として信長から熱田神宮に奉納されたのが「信長塀」です。
信長塀は、土と石灰を油で練り固めて瓦を厚く積み重ねたもので、日本三大土塀の一つとしても有名な塀。熱田神宮内には塀を示す案内板が設置されているのですが、このことを知っている地元民は少ないそうですよ。
住所:名古屋市熱田区神宮1丁目1-1(熱田神宮内本宮前)
桶狭間の戦い、2つの古戦場
桶狭間古戦場跡は一ヶ所ではなく愛知県豊明市と名古屋市緑区有松の2ヵ所。また、桶狭間古戦場跡の周辺にも様々な史跡があり、名古屋市緑区の大高には公園内に大高城跡が残されています。
大高城は家康が兵糧攻めを行った城として有名ですが、大高城を攻めるために信長が築いたとされる「丸根砦」と「鷲津砦」の砦跡を示す石碑も大高駅の近くにあり、信長にゆかりの深い場所ですね。
■桶狭間古戦場伝説地
住所:愛知県豊明市栄町南舘11
・[はざま公園]愛知県豊明市新栄町6丁目220
・[戦人塚]愛知県豊明市前後町仙人塚
■桶狭間古戦場公園
住所:愛知県名古屋市緑区有松町桶狭間北3丁目
・[長福寺]愛知県名古屋市緑区有松町桶狭間字寺前14
美濃(岐阜)と信長
金華山の山頂にそびえる「岐阜城」は、1201年、二階堂行政によって築かれた城です。
険しい岩山の上にそびえる岐阜城は難攻不落の城として知られていましたが、その堅固さから「美濃を制する者は天下を制する」と一目置かれるほどでした。
1567年に信長が「稲葉山城の戦い」で斎藤龍興を討ち取り、岐阜城の城主となりました。このとき信長は、「井ノ口」から「岐阜」へと改名しています。
■岐阜城
住所:岐阜県岐阜市金華山天守閣18
■岐阜公園
住所:岐阜県岐阜市大宮町1-46
・冠木門・・・織田信長居館跡への入口
・織田信長居館跡・・・信長が住んでいた居住跡
・信長の庭・・・剛、静、雅の3つのコンセプトで造られた滝と池と庭園
・岐阜市歴史博物館・・・道三や信長をはじめとする関係人物の歴史展示室
■立政寺
住所:岐阜県岐阜市西荘三丁目7番11
松永久秀や三好衆に京都を追放され屋足利義昭が信長を頼って身を隠した寺。この寺で義昭と合流した信長は、ただちに上洛の準備をはじめ、翌月には松永久秀や三好衆を京都から追い出して義昭を復帰させていますね。
上から見下ろす「血天井」
画像:血天井(崇福寺の本堂)
信長が斎藤道三の孫である龍興を亡ぼして1567年に岐阜城に移ると、斎藤氏の魂を崇福寺で弔っています。
その後、本能寺の変で信長と息子の信忠が明智光秀に討たれると、信長の側室であった興雲院(お鍋の方)が二人の遺品を崇福寺に埋め、位牌を安置しました。これが寺の敷地内にある「織田信長父子廟」。
また、本堂の「血天井」は、信長の孫・秀信が関ヶ原の戦いで東軍に攻められたとき、その時に戦死した兵たちの魂を弔うために岐阜城の床板をはがし、そのまま崇福寺の本堂の天井に張り付けたと言い伝えられています。
■崇福寺(そうふくじ)
住所:岐阜県岐阜市長良福光2403-1
尾張(名古屋)で生まれた信長にとって、愛知・岐阜はゆかりの深い場所です。史跡巡りのリストとしてブックマークしておくといいかもしれませんね。ぜひ、参考にしてみてはいかがでしょうか。
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