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幕末のキーポイント!「尊王攘夷」や「公武合体」って何?(前編)

幕末のキーポイント!「尊王攘夷」や「公武合体」って何?


画像:邨田丹陵画「大政奉還」(聖徳記念絵画館)

浦賀(横須賀市)に黒船が来航した1853年から戊辰戦争が勃発した1869年にかけて、日本では様々な出来事が起きました。この時期を「幕末」と呼びますが、幕末以降、明治維新によって日本の体制は大きく変わっていきます。

幕末とは、読んで字のごとく“幕府の末期”という意味。つまり、江戸幕府=徳川幕府が終わる時期を表しています。そして、幕末に欠かさず登場する言葉が「尊王攘夷」派。今回は、幕末の派閥や思想について確認してみましょう。

幕末の始まり


画像:ペリーの横須賀上陸(大阪書籍)

1853年に黒船が来航した際、老中の(幕府の重職)阿部正弘は開国を要求するアメリカに対して回答を保留し、その一方で天皇や諸大名たちに相談しながら解決策を模索しますが、答えが出ぬまま39歳で病死します。

阿部の後を継いだ堀田正睦は、国外の技術と文化を取り入れることが日本の発展につながると考え、アメリカとの条約締結を孝明天皇に進言しました。しかし、説得は失敗に終わり、かえって鎖国の動きを強めることになるのです。

そもそも孝明天皇は異国人(外国人)が大嫌いで、日本から異国人を追放することに賛成でした。孝明天皇は、自他共に認めるバリバリの「攘夷派」だったわけです。

攘夷とは、外国との貿易や商売など交流に反対し、外国を追い払って鎖国を守ろうとする排外的な思想のことで、黒船が来航して以来、それまで硬直状態だった攘夷派の動きは活発になっていきました。

アメリカの圧力に押されて幕府の権威は落ち始め、攘夷派と天皇を敬う「尊王派」が結びついた「尊王攘夷派」が誕生し、水戸浪士や長州藩などの尊王攘夷派が活発な動きをみせることになります。

その火種を作ったのが大老に就任した井伊直弼。天皇の許可を得ることなく勝手にアメリカと日米修好通商条約を結び、さらに、独断で徳川家茂を14代目の徳川将軍に任命するなど強引な手段で政治を行うわけです。

もちろん、不満を抱く者は増え、幕府に対して反発したり抗議したりしますが、そんなことお構いなしの井伊は反対派を容赦なく罰しました。その取り締まりは過激になり、処刑された者は100人を超えたそうです。

この井伊による尊王攘夷派に対しての過激な取り締まりが、幕末に起きた「安政の大獄(1858年~1859年)」ですね。恨みと怒りを膨らませた水戸浪士(水戸藩を脱藩した武士)たちは、ついに井伊の暗殺を決行するのです。

1860年3月24日の桜田門外の変によって井伊は暗殺され、井伊の後任として後始末を任せられたのが老中の安藤信正でした。安藤は幕府の権威を取り戻すために「公武合体」で幕府の再建を図ろうとします。

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