明智光秀だけじゃない!仲間の"裏切り"に苦労した織田信長の生涯(前編)
画像:織田信長(清洲公園-清洲城)
戦国時代は"裏切り"も処世術の一つ。たとえば、武田信玄が病死したあとの武田家では裏切りが相次ぎ、木曾義昌が織田信長に寝返ったり穴山梅雪は徳川家康に情報を流していたり、さらに小山田信茂も裏切って武田家は滅亡。
ほかにも家臣の陶晴賢が謀反を起こし大内氏(大内義隆)が滅び、賤ヶ岳の戦いでは最も信頼していた前田利家の戦線離脱によって柴田勝家が戦死するなど、不運な最期を遂げた武将も少なくありません。
関ヶ原の戦いで東軍に寝返った小早川秀秋しかり、出世のために恩師を殺した斎藤道三にしても、裏切りは生き残るための常套手段だったわけです。そして、織田信長も家臣の裏切りによって不本意な最期を迎えた武将です。
しかも、一度や二度の裏切りではありませんでした。家老・林秀貞の謀反に始まり、家臣・明智光秀の謀反で終わるという「裏切りに満ちた」生涯だったんです。そこで今回は、信長の裏切りヒストリーをご紹介したいと思います。
林秀貞の裏切り
画像:織田信行(©2014信長協奏曲)
一発目の裏切りは織田家を継いだ5年後のこと。信長は1551年に家督を継ぎ勝幡織田氏5代目当主となりますが、織田家の筆頭家老であった「林秀貞」は信長の言動に不満をもっていました。
やがて秀貞は当主の座には信長の弟である「織田信行(信勝)」が相応しいと考えるようになります。そして1556年、秀貞は信行の側近・柴田勝家らに声をかけて謀反を起こし、信長の討伐を掲げ出陣しました。
信長が率いる織田軍は秀貞の軍勢を稲生(名古屋市西区)で迎え撃ち、勝利します(稲生の戦い)。信長は首謀者の秀貞や信行、謀反に加わった勝家を許し、お家騒動を鎮圧することに成功しました。
ところが、またもや信行が不審な動きを始めるのです。それを信長に知らせたのは勝家でした。信長は信行を清洲城に呼び出して殺害。これにて織田家の家督争いは終結しました。
その3年後、今度は妹(お市)を嫁がせてまで同盟を結んでいた「浅井長政」に裏切られ、あわや金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)で命を落とすところでしたが命からがら脱出することができました。
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