明智光秀だけじゃない!仲間の"裏切り"に苦労した織田信長の生涯(後編)
画像:本能寺焼討之図 楊斎延一画(愛知県図書館)
前編では「林秀貞」と「織田信行」の謀反による"お家騒動"、同盟国である「浅井長政」の裏切りについてお話ししました。
↓前編はこちら↓
明智光秀だけじゃない!仲間の"裏切り"に苦労した織田信長の生涯(前編)
後編では信長を「二度も裏切った男」や「謀反を起こしたあげく黒田官兵衛を監禁した武将」、そして、戦国史において裏切者の代表と言っても過言ではない「明智光秀」についてお話ししたいと思います。
松永久秀の裏切り
画像:落合芳幾・画「松永弾正久秀」(東京都立図書館)
松永久秀は信長に加勢していた戦国武将の一人で、金ヶ崎の退き口では浅井長政の裏切りを一早く察知して信長に知らせたという説もあるほどの人物でしたが、この男、二度も信長を裏切るんです。
足利義昭は「信長包囲網」を発動するために各地の大名や武将に命令を出しました。真っ先に応じたのが甲斐の虎・武田信玄。この時代、上杉謙信と並び"無敵"と称された武将ですね。
さすがの信長もピンチなわけで、そんな状況下で久秀は信玄と内密にやり取りしていたようで、1572年(朝倉・浅井とバトル中の頃)に久秀は三好義継らと結託して信長に対し反逆を起こしたのです。
いよいよ信玄が信長を壊滅させようと動き出した矢先、信玄は進軍中に病死。これによって信長包囲網は次第に弱まり、怒りMAXの信長は義昭を威嚇しまくって京都から追放しました。
つまり、足利将軍家が終焉を迎えた瞬間です。久秀は多聞山城に籠城して抵抗しようとしましたが手持ちの兵も少ない状態で織田軍に包囲され降伏。なんとか信長に許してもらえました。
それから5年後、またもや裏切ります。
1577年の石山本願寺攻めに従軍していた久秀は、今から攻めるぞ!というときに突如として戦線を離脱し、居城の信貴山城に立て籠もってしまうんです。織田軍の誰もが「えっ?」といった雰囲気。
信長は城に遣いを出し、「何か言いたいことがあるなら言ってくれ」と久秀をなだめましたが、これを素っ気ない態度で追い返してしまいます。我慢の限界に達した信長は息子の信忠に4万の兵を預け、信貴山城を包囲。
対する久秀の兵は8000。そして、信長は最後のチャンスを与えます。「お前が大切にしている古天明平蜘蛛(至極の作品と言われた茶器)を俺にプレゼントしてくれるなら今回のことは忘れよう。なかったことにしよう」と。
信長は大の茶器マニアですし、久秀が持っていた古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)は魅力的だったわけで。
これを聞いた久秀は古天明平蜘蛛を渡すことなく自害。死ぬ前に叩き割ったという説もありますね。二度も信長を裏切り、しかも同じ籠城というシチュエーションで、まさにミステリアスなクレイジーおじさんです。
この記事へのコメントはありません。