なぜ会津藩は戦い抜いたのか?戊辰戦争から150年目の今年、「会津藩」の生き様を振り返ってみる
画像:若松城(鶴ヶ城)
1868年、戊辰戦争。新政府の勝利で幕を閉じ、旧幕府軍は解体され徳川幕府は消滅。錦の御旗を掲げた新政府の大義は「朝敵の討伐」であり、徳川幕府に与する者たちは反逆者として容赦なく新政府の標的になりました。
戦況が不利になるにつれ新政府軍に寝返る藩が続出するなか、実直に、ブレずに、最期まで筋を曲げず"会津の誇り"を貫いた会津藩。朝敵の汚名を着せられ、負け戦とわかっていても、それでも最後の最後まで抵抗したのです。
「義をもって倒るるとも不義をもって生きず (汚名を着たまま生きるより義を抱いたまま死のう)」、それが会津藩の総意でした。旧幕府は負けましたが、会津藩に限っては単なる勝ち負けでは測れない"ドラマ"があります。
なぜ、そこまでして"義"を貫いたのか、会津が命に代えてでも貫き通した"義"とは何なのか。戊辰戦争から150年目の今年、あらためて会津藩の生き様を振り返ってみたいと思います。
幼少期から教え込まれる忠義の魂
画像:徳川将軍家「葵の家紋」
まず、会津藩の生い立ちを知らずして戊辰戦争は語れません。会津藩の初代藩主・保科正之は徳川秀忠(徳川将軍2代目)の側室の子でしたが、正室・お江の方の嫉妬を恐れて高遠藩主の保科家へ養子に出されます。
やがて3代将軍・徳川家光の時代になると、家光は正之を腹違いの弟として認知し、会津23万石を与えると同時に会津藩主に任命します。このときの恩を子の代になっても忘れないために正之は会津藩の家訓を定めるのです。
15箇条から成る家訓でしたが、そのなかの1条と2条が実に印象的で、「徳川将軍家に誰よりも(どの藩よりも)忠義を尽くし、もし徳川将軍家に背くような者が現れても従ってはならない」、「兄を敬い弟を愛しなさい」というもの。
「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず」
(たとえ他の藩が徳川将軍家を裏切ろうとも、会津藩は徳川幕府に不信を抱かず忠勤に励む)
これこそが、会津藩の"義"であり、最期まで貫き通した"意地"でした。会津藩の家臣ならまだしも、なぜ村人や子供まで忠義を貫く強い意志をもっていたのか、それは幼い頃に受ける会津独特の"教育"にも理由があります。
会津藩士の子供らは10歳になるまで「什(じゅう)」と呼ばれる教育を受けますが、同じ町(村)に住む6歳~9歳の子供が10人のグループをつくり、そのグループの年長者を什長と呼んでいました。
毎日、交代でグループのいずれかの家に集まり、什長が話を一つ聞かせ、話が終わると今日一日の反省会をするという流れ。そして、この什には"掟"と呼ばれるルールがありました。
什の掟 一、年長者(年上の人)の言うことに背いてはいけない |
画像:什の掟(会津藩校日新館)
掟を読み終えた後、最後に「ならぬことはならぬものです」と締めくくります。重要なのは掟の内容ではなく、締めくくりの「ならぬことはならぬもの」という言葉でした。
これは、「ダメなものはダメ」という意味ではなく、「たとえ不条理な約束事であっても絶対に守りなさい」という"誓いを確かめ合う"または"自分へ言い聞かせる"ための合言葉のようなものだったのです。
10歳になると藩校日新館に通い、今度は会津藩の家訓を生涯の指針として身につけることになります。
つまり、「什」は会津藩士としての心構えを身につけるための予行練習であり、「ならぬことはならぬもの」の精神を体に覚えさせるための基礎教育だったと言えるでしょう。
人間の人格は幼少期に形成されると言いますが、その時期に什を行うというのは理にかなっていたのかもしれません。
たとえ不条理であっても掟(家訓)は守る・・・、会津藩の人々の心に深く刻まれた暗黙のルール。これが足かせとなって負け戦と分かっていても朝敵と汚名を着せられようと、最期まで家訓を守り通すという"忠義"を貫いたわけです。
会津戦争と若松城下の戦い
画像:会津戦争後の若松城(国立国会図書館)
そうやって受け継がれてきた会津の魂は、会津藩主9代目・松平容保の代になっても揺らぐことはありませんでした。そして、1868年1月に戊辰戦争が開戦すると、旧幕府軍の指揮官の一人として容保も名を連ねます。
新政府軍は怒涛の勢いで旧幕府軍を打ち負かしていき、いよいよ会津まで攻め入ってきました(会津戦争)。戦況が不利になると旧幕府軍に与していた藩が次々と新政府に寝返るなか、依然として抵抗の姿勢をとる会津藩。
会津戦争に出陣した新政府軍は37藩を超え、対する旧幕府軍は6つの藩と新撰組など小隊が4つ。戦力の差は歴然でした。旧幕府軍の東北勢は6月20日に白河城が落とされ、9月15日に新政府は二本松を占領。
会津戦争における新政府軍
薩摩藩、長州藩、土佐藩、佐賀藩、大村藩、佐土原藩、人吉藩、中津藩、小倉藩、岩国藩、広島藩、岡山藩、鳥取藩、今治藩、紀州藩、彦根藩、大垣藩、尾張藩、加賀藩、松代藩、松本藩、上田藩、飯山藩、高田藩、新発田藩、忍藩、館林藩、宇都宮藩、黒羽藩、大田原藩、水戸藩天狗党、守山藩、三春藩など
旧幕府軍
会津藩、米沢藩、庄内藩、棚倉藩、仙台藩、中村藩、福島藩、二本松藩、伝習隊、衝鋒隊、新撰組
10月6日に新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、10月8日の朝には若松城下に突入しました。しかし、このとき会津藩の兵たちは各方面に散らばっていて城下町を離れている状態。
町人には「城の鐘が鳴ったら入城して身を守れ」という通達が出ていましたが、混乱する状況で鐘が鳴り響く中、予想以上に早い新政府軍の進入に対応できず、城下の人々は究極の決断を迫られることになります。
予備の兵であった白虎隊(15歳~17歳で編成された少年部隊)が出動するも敗れますが、鶴ヶ城(若松城)では山本八重(のちの新島八重)が攻め寄せる新政府軍を相手に奮闘し、城を守ることに成功しています。
八重といえば、会津藩の鉄砲師範・山本権八の娘。城下で乱戦が始まると断髪して男装し、スペンサー銃と日本刀で応戦した伝説的な姿は、今もなお会津の英雄として語り継がれています。
八重は鶴ヶ城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛や新撰組の斎藤一らも城外で新政府軍と交戦しましたが、10月半ばには同盟諸藩(奥羽越列藩同盟)の米沢藩や仙台藩などの降伏が相次ぎ、孤立した会津藩も11月6日に降伏。
しかし、すでに200人を超える城下の人々が自害しており、壮絶な光景を目の当たりにした新政府軍の兵たちは肝を冷やしたと言われています。こうした会津の歴史を背景に「滅びの美学」などと称する人もいますが、その表現は正しくないと思われます。
滅びの美学と言ってしまえば"死を受け入れていた"ように聞こえてしまい、史実を見る限り決してそのような美学は若松城下で起きていないからです。もっと言えば、納得できない死だったのではないかと思えてくるのです。
会津藩に忍び寄る"滅び"の足音
画像:京都守護職のときに撮影された松平容保(会津新撰組記念館)
会津藩が"死"を選択したのは、「ならぬことはならぬもの」の精神に従っただけではありません。会津藩が身を亡ぼす原因になったのは「京都守護職」を引き受けたことにあります。
京都守護職とは京都の治安を維持・守るために新しく設けられた幕府の役職でした。その地位に就いたのが会津藩主9代目の松平容保。しかし、これは希望して就いたわけではなく、ほとんど強引に任命されたようなもの。
それでも容保や会津藩士らは幕府のために尽力し、懸命に役目を果たしていました。
結果、孝明天皇は会津藩に厚い信頼を寄せ、その証拠に、八月十八日の政変(1863年)の2ヶ月後に容保は、天皇直筆の書状(宸翰)と天皇自作の和歌(御製)を孝明天皇から贈られています。
そんな矢先、会津藩にとってターニングポイントとなる事件が起きます。1867年に孝明天皇が崩御してしまう(亡くなる)のです。そして、明治天皇が即位します。
この頃にはすでに八月十八日の政変で京都から追放された長州藩は薩摩藩と同盟(薩長同盟)を結んでおり、大々的に討幕を掲げて徳川幕府と臨戦状態にありました。
もとはといえば、八月十八日の政変は会津藩と薩摩藩が協力し合って長州藩を追放したわけで、まさに"昨日の友は今日の敵"とは、このこと。さらに、会津藩に衝撃的な知らせが届きます。
勢いを増す薩長の威圧に耐えかねた15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還(1867年11月9日)」を起こしました。政権を天皇に返し、やがて訪れる新政府の一員として徳川家を残すための苦肉の策だったのでしょう。
ところが、そんなこと薩長には関係なく、どうにかして徳川家を抹消したいわけで、薩長は明治天皇を味方につけて「王政復古の大号令(1868年1月3日)」※のもと旧幕府軍との戦闘を実行に移します。
旧幕府軍は臨戦態勢を保っていましたが、薩長の挑発に乗ってしまい1月26日に幕府の軍艦2隻が兵庫沖に停泊していた薩摩の軍艦を砲撃。これにて事実上、戊辰戦争が開戦しました。
1月28日には新政府軍が「錦の御旗」※を掲げ、徳川幕府は朝敵(朝廷に敵対する者)となり、自ずと会津藩も朝敵として睨まれることになるわけで、このとき、すでに会津藩が滅びゆく運命は決まっていたのかもしれません。
昨日まで命を懸けて京都の治安を守っていたのに、いきなり朝敵として狙われる羽目になったのですから、会津藩の気持ちを考えると、どれほど悔しかったか想像を絶します。
王政復古の大号令・・・幕府の廃絶・摂政・関白などの解体、新政府の樹立宣言
錦の御旗・・・朝敵を討つための官軍に天皇が授ける旗
この記事へのコメントはありません。