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愛・正義・硬派、上杉家に尽くした忠義の武将「直江兼続」の生涯とは?(後編)

  兼続、最後の戦い「大坂冬の陣」


画像:直江城州公鉄砲鍛造遺跡の石碑

兼続は治水工事や新田開発のほかに、鉄砲づくりにも力を注いでいます。米沢城は平城で防御面が弱く、万が一に備え攻撃から守る策として内密に鉄砲を製造していました。

鉄砲術に長けた駒木根右近をヘッドハンティングし、近江坂田(滋賀県長浜市)からは鉄砲の製造に詳しい吉川惣兵衛や、大阪の堺からも泉谷松右衛門をそれぞれ200石でスカウト。

そして、城下から約16キロメートル離れた吾妻山(福島と山形にまたがる山)中腹の白布高湯(白布温泉)に2棟の製造所を設け、吉川と泉谷に1000挺の火縄銃を造らせました。

白布高湯を選んだ理由は人目を避けるためと、火縄銃の製造に不可欠な大量の炭が調達できたからです。また、一説によると、白布温泉の水質が硫黄泉で、その硫黄から火薬を産出していたようです。

兼続は火縄銃の製造を進める一方で、鉄砲を取り扱う心構え使い方など15ヵ条をまとめた「鉄砲稽古定」を作成し、上杉の家臣や領内の侍たちに射撃訓練を推奨しています。

やがて、兼続の鉄砲隊は成果を発揮するときが訪れ、1614年に起きた大坂冬の陣における鴫野(しぎの)の戦いで大活躍し、兼続は徳川秀忠より感状を受け功績を残しました。

<鴫野の戦い>

大阪城の本丸から北東へ約2キロメートルにある大和川の南岸が鴫野村には豊臣軍の井上頼次と大野治長が率いる部隊2000人が守備し、上杉軍は徳川より鴫野村の突破を命じられていた。
1614年11月15日、鴫野へ到着した上杉軍は5000人。南に堀尾忠晴、その後方に丹羽長重を配備し、鴫野の対岸(今福村)には佐竹義宣が布陣した。
徳川から出陣の号令がかかり、26日の早朝に景勝は攻撃を開始。兼続は鉄砲隊を指揮し、須田長義・安田能元・水原親憲の3部隊を次々と送り込んで射撃による猛攻撃を仕掛ける。
守将の井上頼次を討ち取ったが豊臣軍の反撃は激しく、ほぼ互角の攻防戦が繰り広げられた。しかし、天満から徳川の援軍が到着すると状況は一変。
水原の部隊が怒涛の連射で豊臣軍の守りを切り崩し、さらに須田や安田の援護射撃による銃弾の雨を浴びた鴫野村の豊臣軍は敗れ、鴫野の戦いは上杉軍の勝利で幕を閉じた。

この合戦が兼続にとって生涯最後の戦いとなりましたが、その後も鉄砲の修理や訓練など継続して行い、兼続が手塩にかけて作り上げた鉄砲関連事業は一目置かれる存在となったのです。

鉄砲職人が住んでいた一帯は米沢市鉄砲屋町という地名でしたが現在は中央三丁目になっており、白布温泉には直江城州公(直江兼続)鉄砲鍛造遺跡の石碑が昭和45年に建てられました。

  兜に掲げた「愛」の由来


画像:錆地塗六十二間筋兜「愛字に端雲の立物」(上杉神社)

兼続のトレードマークといえば兜に掲げた「愛」の文字で、通称“愛の兜”。なぜ、兼続は「愛」を選び、武将の象徴とも言える兜に大きく掲げていたのでしょうか。

これには3つの説があり、一つ目が愛宕権現(あたごごんげん)、二つ目が愛染明王(あいぜんみょうおう)、三つ目が愛民・仁愛です。大河ドラマ「天地人」では愛民の説が用いられています。

<愛宕権現>
愛宕権現は武道の神様で、武神と称される勝軍地蔵が由来。上杉謙信が合戦の前に先勝祈願していた愛宕神社にも由縁があり、愛宕権現から「愛」の文字を拝借したと考えられています。

ちなみに、謙信は毘沙門天から「毘」の文字を拝借して兜や旗に掲げていました。兼続の人格や思考は謙信の影響を強く受けているため、謙信を真似て兜に掲げたとしても不思議な話ではありませんね。

<愛染明王>
愛染明王は仏教の神様ですが、愛宕権現と同様に戦いの守護神でもあります。また、弓矢をもっていることから戦勝の仏様としても崇拝され、兼続に限らず多くの武将が信仰していました。

<愛民・仁愛>
兼続は「国民が豊かになれば国家も豊かになる」と考え、新田開発や農業に関する執筆、治水事業による水の確保や洪水の防止など人々の暮らしを豊かにする政策や事業に多く取り組んでいます。

民を想うことを意味する愛民、または情け深い心で人を思いやることを意味する仁愛から「愛」の文字を拝借し、いつでも“民のため”という精神を忘れないように兜に掲げたのではないかと考えられていますね。

どの説が有力なのか定かではありませんが、いずれにしても兼続の「愛」の文字はLOVEという意味ではありません。なお、米沢市の上杉神社には、兼続が使用していた愛の兜が保管されています。

  兼続に所縁のある史跡


画像:上杉景勝公と直江兼続公主従像(上杉神社)

1620年1月23日、兼続は江戸鱗屋敷(現在の警視庁「桜田門」近く)で病死し、60歳でこの世を去りました。兼続の死を偲んで徳川幕府は銀50枚を贈ったそうです。

また、1924年2月11には宮内省から従四位(神に授けられる階級)を追贈(死後に称号や勲章を贈る)されており、いかに兼続が偉大な人物であったかを物語っています。

遺体は米沢市の徳昌寺に埋葬されましたが、のちに徳昌寺と林泉寺の間で争いが起こると徳昌寺が消滅したため東源寺へ移され、最終的には林泉寺に移され兼続夫妻の魂が眠っています。

■林泉寺(山形県米沢市林泉寺1-2-3)
兼続夫妻の墓所。景勝の妻、菊姫の墓所でもある

■上杉神社(山形県米沢市丸の内1-4-13 )
米沢城の跡地。「愛の兜」が保管されている

■松岬神社(山形県米沢市丸の内1-1-47)
上杉家の功労者を祀る神社。上杉鷹山など、6人の功労者を祀っている

■法泉寺(山形県米沢市城西2-1-4)
景勝と兼続が創建した寺。藩士の教育を目的に造られた学問所

■直江石堤(山形県米沢市直江石堤地内)
米沢城下を洪水の被害から守るために兼続が最上川の上流に築いた石積みの堤防

■宗川温泉(山形県米沢市板谷498)
上杉家の守り湯として重宝された温泉で、開湯1300年の歴史がある

■直江城州公鉄砲鍛造遺跡の石碑 (山形県米沢市大字関1527)
白布温泉の西屋・中屋・東屋前の広場に建っており、火縄銃の製造が行われていた跡地

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