雨による川の増水を利用した備中高松城の水攻め
画像:備中高松城跡の案内板
長篠の戦いで勝利し、いよいよ信長の天下統一が目前に迫る中、中国地方の有力大名・毛利氏との戦いを命じられ備中高松城に出陣した豊臣秀吉(この頃は羽柴秀吉)。さすがは名称・毛利、そう簡単に攻め落とせません。
苦戦しているという報告を受けた信長は秀吉に「おいコラ!早く毛利を降伏させろよ!!」と無茶を言う有様。この時期は梅雨シーズンということもあり、高松城の近くを流れる足守川が増水することも度々でした。
そこで秀吉は、家臣・黒田官兵衛の助言もあり、足守川を利用した「水攻め」を決行することにします。長さ約4キロメートルの堤防を築いて囲み、高松城の周りを大きな湖にしようと考えたのです。
いよいよ堤防が完成しようとしていた頃、激しい雨が降り注いで足守川は増水。まさに水攻めにはベストコンディション。築いた堤防の中に足守川の水が一気に流れ込み、ものの数時間で高松城は湖に浮かぶ城になってしまったわけです。
孤立した高松城は、時間が経てば食糧不足や精神的なダメージで降伏するのは時間の問題。ほぼ秀吉が率いる織田軍の勝利が目に見えていました。
しかし、この直前に秀吉は「本能寺で信長が討たれた」という知らせを受け、兵を引き上げて京都へと向かいます。これが俗に言う「中国大返し」ですね。京都の山崎で明智光秀を討った秀吉は、この戦いが天下取りの足掛かりになりました。
ちなみに余談ですが、秀吉が官兵衛の有能さを称えるエピソードがあります。秀吉が家来たちに、ふざけ半分で「俺が死んだら次に天下をとるのは誰だと思う?遠慮なく言ってみろ」と質問しました。
家来たちは前田利家や徳川家康などの名を挙げましたが、秀吉は「違う。今、天下が取れるのは官兵衛だ」と即答。
これに対して家来たちは「官兵衛は10万石しかない弱小大名ですよ。有力大名の前田利家さんや家康さんには勝ち目がないでしょ」と言い返すと、秀吉は、こう答えたと言います。
「わしは過去の合戦で優柔不断になったり策が尽きたことも多い。そんなとき道を切り開いたのは官兵衛じゃ。あいつに助言を求めると難題も裁断し、見事な策で俺を驚かせた」と。
さらに、「官兵衛は意思が強くて物事を注意深く観察し、したたかで賢い。にも関わらず、結論を出すまでが早い。まさに天下に愛される男になるだろう。あいつが10年先に生まれていなくて良かったわ」と話したそうです。
この話を人づてに聞いた官兵衛は喜ぶどころか「わが家の災いにつながる」と表情をこわばらせ、丸坊主にしたあと剃髪し、官兵衛から「如水」へと改名しました。
つまり、「天下を取る気など1ミリもない」という意思表示として頭を剃って出家したわけです。おそらく、備中高松城の水攻めも黒田官兵衛の采配によるものだったのでしょうか。なんて、ロマンを彷彿させますね。
6月と梅雨と織田信長
画像:本能寺焼討之図(名古屋市図書館)
直木賞作家の新田次郎・著の歴史小説「梅雨将軍信長(新潮社)」というタイトル通り、まさに梅雨と関係が深い信長。そして、ターニングポイントになる出来事が6月に起きているというのも不思議な縁を感じます。
1534年6月23日・・・信長、生まれる 1560年6月12日・・・桶狭間の戦いで今川義元に勝利 1570年6月3日・・・金ヶ崎の退き口で危機を脱して京都に生還 1575年6月29日・・・長篠の戦いで武田勝頼を滅ぼす 1582年6月20日・・・秀吉が備中高松城の水攻めで有利に立つ 1582年6月21日・・・本能寺の変で他界 |
6月に生まれ6月に桶狭間の戦いで天下統一の足掛かりをつくり、6月に金ヶ崎で死にかけても危機一髪のところで生還し、天下統一を決定づけた長篠の戦いや備中高松城の水攻めも6月。
しかし、最期は本能寺で明智光秀の謀反により6月、自害。ただの偶然なのでしょうか。それとも、神の悪戯なのでしょうか。戦国時代の"革命児"信長は、ミステリーに包まれたロマン多き男なんですね。
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