巌流島の決闘は「佐々木小次郎」を抹殺するために小倉藩が仕組んだ計画だった?
画像:山口県下関市船島
山口県下関市から船で5分の巌流島。宮本武蔵と佐々木小次郎、二人の剣豪が死闘を決した場所として知られていますが、本来の正式名称は"船島"であり、巌流島は戦いが終わったあとに名付けられた通称です。
そして、戦いに勝った宮本武蔵は剣術家・兵法家として江戸時代の初期まで存命し、二天一流(二刀流)の開祖として歴史に名を残し、枯木鳴鵙図や紅梅鳩図など武蔵が描いた水墨画は重要文化財にも指定されています。
一方、佐々木小次郎については、ほとんど謎に包まれているんです。それどころか、決闘ではなく"暗殺だった"という説まで浮上し、巌流島に行くと"祟り"が起こると噂する人もいます。
そこで今回は、歴史研究家の見解や史料などを参考に、佐々木小次郎の死の謎に迫ってみたいと思います。
佐々木小次郎は本当に存在したのか?
画像:武蔵・小次郎、決闘の像(山口県下関市船島)
1612年4月13日の午前8時~9時頃、下関に浮かぶ船島で武蔵と小次郎は決闘しました。当時、宮本武蔵は29歳で60戦・無敗という記録から、すでに名の知れた剣豪だったようです。
対する佐々木小次郎は18歳。90センチの大太刀(長い刀)を扱い、九州では有名な剣豪で、細川小倉藩(豊前小倉藩)に剣術指南として仕え、藩士に武芸を教えていたほどの腕前でした。
また、小次郎は添田(福岡県田川郡添田町)の豪族・佐々木氏の出身であることが近年の研究(原田夢果史の著書など)で分かっており、添田の佐々木氏は1587年に起きた豊前国人一揆の中心となった一揆勢の一人でした。
画像:添田町史(添田町役場)
さて、巌流島の決闘当日、
武蔵は長太の木刀、小次郎は大太刀(真剣)で戦い、
細川小倉藩の家臣が立会人を務める中、
あっという間に勝負はつき、「武蔵が小次郎の側頭部を一撃で打ち砕いて終わった」とされています。
しかし、この決闘には疑問が多く、まず、武蔵は巌流島の決闘について「五輪書」に一言も記していないのです。
画像:五輪書(九州大学記録資料館)
※五輪書・・・武蔵が剣術の奥義や兵法、出来事などを記した書物
さらに、決闘のあと、武蔵は細川(小倉)藩の管轄である門司城(福岡県北九州市)に匿われており、細川藩の家老・沼田延元らが記録した「沼田家記」の文中にも「門司城にて武蔵を保護」の一文があります。
画像:沼田家記(永青文庫)
また、保護が終わると、細川藩の鉄砲隊が武蔵を警護して九州の外まで送り届けており、細川藩の剣術指南を殺した武蔵を丁重に保護し、護衛までつけるというのは不思議ですよね。
とはいえ、保護というより実際は監禁に近かったとか。近くで見張る必要があったのでしょうか・・・。もしかしたら、喋られては困る"秘密"を武蔵は握っていたのかもしれません。
そして、もっとも不可解な点が、小次郎に関する記述があるのは沼田家記だけで、小倉藩や幕府の公式記録に小次郎のことが一文も記されていないのです。それどころか、名前すら書き残されていません。
細川藩に仕えた剣術指南の名が記されていないというのは、もはや存在そのものを疑ってしまうレベルですが、なぜ、小次郎に関する記録が一切ないのでしょうか。