騒動の経験と結末について
1837年2月19日のAM8:00、自宅に火を放つ平八郎。
徳川家康を祀る川崎東照宮に集まった平八郎の軍団100名は東照宮に砲弾を放ち、朝岡助之丞の自宅に砲弾を撃ち込んで天満でひと暴れしたあとに天満橋筋(大阪市を南北に通る道)を南下。
反乱分子として集まった農民や町人は、野袴(のばかま)を着て白木綿の布を頭に巻いた平八郎を先頭に「救民」の大きな旗を掲げて天満の町を歩く。
また、東照大権現・天照皇太神宮・八幡大菩薩・湯武両聖王など神名を書いた小旗も一緒に掲げ、「大義のための反乱」であることを知らせながら進軍していく。
画像:大塩平八郎の乱「救民」の旗レプリカ(おもしろ博物館ショップ)
騒ぎを聞きつけ寄ってきた農民に「一緒に行くぞ」と声をかけながら進軍する。
進路である淀川に架かる天満橋が幕府に破壊されていたので西に進路を変え、淀川沿いを西に歩いて難波橋を南下して船場町(北船場)に到着するのがPM12:00頃のこと。
気づけば300人の集団になっており、北浜と北船場に二手に分かれた集団は、金持ちの商人宅を襲い、金品や食料を奪って行く先々の道中で貧しい町人たちに配っていった。
平八郎の集団は高麗橋を渡ったあたりで大阪城から出陣した幕府の兵と戦闘になる。幕府側の指揮をとるのは土井利位。当然ながら訓練を受けた藩士や兵を相手に一般人が互角には戦えない。
幕府の兵が放った2発の砲弾で平八郎の集団は壊滅的なダメージを与えられ、PM4:00頃には敗北が確定。平八郎ともども集団は逃げ、平八郎と息子(養子)の格之助は八軒屋から船で逃亡した。
反乱に参加した者たちは厳しい取り締まりによって自首したり逮捕されたり、なかには自殺する者もおり、騒動が起きてから9時間ほどで鎮圧されている。
3月27日、平八郎と格之助は隠れ家にしていた靱油掛町(現在の大阪市西区靱本町)の民家で幕府の兵に包囲され、逃げ場を失った平八郎は火薬で隠れ家を爆破して息子と共に自殺した。
●完全消失した家屋・・・およそ3400件
●負傷者数・・・推定1万人~15000人
●騒動開始から9時間で鎮圧
●騒動の理由・・・天保の大飢饉を放置する無能な幕府の役人や米を買い漁って独り占めする金持ちの商人たちに天罰を与えるため
なぜ平八郎は反乱を起こしたのか?
画像:大塩平八郎像(大阪城天守閣-菊池容斎作)
平八郎の人生を大きく変えた原因は高井実徳(サネノリ)の後退だった。実徳は高齢を理由に東町奉行所を退職し、そのあとを追うように平八郎も幕府の役人を辞めている。
退職後の平八郎は自宅で陽明学の私塾「洗心洞」を運営し、中国学問に基づいた勉学を教えていた。
そんな矢先、天保の大飢饉が江戸を襲う。米の値段は急激に吊り上がり、金持ちの商人が独占している状況。一般市民は食べるものに困り、生活は苦しくなり、餓死する町民が増えた。
ところが、大阪の治安を守るはずの奉行所は対策する気配がない。救済するどころか、幕府の重役であった水野忠邦は自分の弟(跡部良弼)を東町奉行の責任者に任命し、大阪の米を買い占めるように指示した。
跡部は金持ちの商人に米を買付させ、それを忠邦の指示で江戸に送る。市民が手を出せないように米の値段を吊り上げ、人々の暮らしは限界に達していた。
この事態を解決したい平八郎は陽明学の知識を取り入れた「飢饉の救済策」を何度も跡部に提案したが、そもそも救済とは真逆の行動をとっているので当然ながら跡部が聞き入れるはずがない。
あげくの果てには「しつこく文句を言うと牢屋に入れちゃうぞ!この老いぼれが!」とまで怒鳴りつけられ、ついに平八郎は我慢の限界を超えてプッツンする。
2月19日に跡部が西町奉行に赴任する堀利堅(ホリイタカトシ)を町案内することを聞き、二人が休憩する朝岡助之丞の自宅を襲撃して殺害する計画を立てた。
それと同時に、留守になる西町・東町の奉行所へ攻撃を仕掛け、米を買い占めている商人たちを襲い、金や食料を奪って貧しい市民に配る作戦も立てる。
ただし、悪者に「天罰を与える」という平八郎の目的は表面上のものだった。反乱を起こした目的には、もう一つの理由があった。それは、「幕藩体制の見直し」という裏の目的。
平八郎が成し遂げたかった2つの目的
幕藩体制は各地の藩に管理を任せ、それぞれの藩主が地方の責任者になっていた。つまり、幕府のトップ=12代将軍の徳川家慶は地方の管理に口出ししないし、大げさに言うなら各地の藩主が好き勝手にやれる状態。
平八郎は藩の直轄である奉行所で起きているモラルのない実態を徳川のトップに知ってほしかった。米の値段を吊り上げたり買い占めたりを指示していたのは、水野忠邦に指示された跡部。
米の買い占めは金もうけに目がくらんだ水野という悪代官と大阪の商人が勝手に始めたこと。そのせいで大阪市民は飢えに苦しんでいたのだ。
反乱を起こすと同時に平八郎は、役人の悪行を書き記した手紙を知人に頼んで江戸に届けようと試みる。だが、箱根から静岡の三島に入る途中で何者かに奪われ、手紙を入れていた木箱だけが箱根の山中で見つかる。
平八郎は反乱を起こすだけでなく、書面でも徳川のトップに対して役人の悪行をアピールしたかったのだ。
地方の責任者に各地の管理を任せる「幕藩体制を見直してほしい」という願いがあり、大塩平八郎の乱は「悪い奴らの成敗」と「幕藩体制の改革」この2つが目的だったと言える。
その過程で「飢えに苦しむ市民に悪い商人から奪った金や食料を配る」という複利的な目的もあったわけだ。わずか9時間で平八郎は敗北したが、決して無駄ではなかった。
大塩平八郎の乱は全国に口コミで広がり、幕府に対して疑念を抱く者や騒動を起こす者が増え、平八郎の意思は連鎖するように引き継がれていく。
大塩平八郎の乱は歴史に残る出来事として、市民の意識改革に大きな影響を与えたのである。
この記事へのコメントはありません。