信長が本能寺に滞在していたとき、信長の嫡男(跡取り)である信忠も妙覚寺に宿泊していた。場所は同じ京都で、たまたま同じ時期に滞在していたとされる。
本能寺が明智に攻められたことを知った信忠は急いで救助に向かうが、一歩手前の二条城で明智軍に取り囲まれ信長と同様に自害により命を絶った。
本能寺の変がきっかけで、織田家は首領と跡取りの二人を同時に失ったわけだ。このとき信忠は26歳、男として脂がのった盛んな年頃である。
カリスマ社長の存在は大きすぎた
画像:本能寺の変跡
信長は27歳で今川義元を桶狭間の戦いで討ち取り、圧倒的に不利な状況下で10倍の軍勢に勝利したということもあり信長の名は世間に響き渡った。
そうした功績が信長をカリスマへと押し上げた要因の一つでもある。そして信忠も、父の血を受け継ぐように表立って目立ちはしないが着実に功績を残していく。
浅井長政の討伐で初陣し、石山の合戦や伊勢長島の一向一揆攻め、長篠の戦いや岩村城攻めで尽力し、松永久秀の討伐や中国攻め、26歳では総大将を務めて武田家の壊滅に貢献している。
だが、その数か月後に、本能寺の変をきっかけに一瞬で命を落とした。もし、これが26歳の頃の信長だったら・・・と考えると結果は違っていたかもしれない。
織田家の嫡男として功績を上げたが、あくまでも信長が作り上げた環境の中での話。一から這い上がる器量があったかと言えば、おそらく信忠の力だけでは無理だと思う。
つまり結局は、お坊ちゃま。たとえ京都で命を落とさなかったとしても、信長の跡を継いで織田家を統制できたかを考えると信忠には荷が重いだろう。
柴田勝家や徳川家康、滝川一益や羽柴秀吉など血気盛んな家臣たちを従わせて天下統一を成し遂げたかというと、おそらく無理だったのでないだろうか。
カリスマ社長の跡を二代目が継いで経営破綻する企業のように、信長の存在は大きすぎたと言える。信長の死そのものが、織田家滅亡の決定的瞬間だったのかもしれない。
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