本能寺の変には黒幕がいたのか?
本能寺で信長を討ったのは光秀の単独犯で間違いない。しかし、裏で糸を引き、策略を企てた黒幕がいるのではないか、という説も様々な専門家が唱えている。
本能寺の変”黒幕”説として取り上げられているのが4つ。いずれも確固たる根拠はないが、憶測と見解により本能寺の変と結び付けている。ここでは、代表的な仮説をご紹介する。
黒幕その1 豊臣秀吉の陰謀
画像:天下を獲った男 豊臣秀吉(©1993TBS)
本能寺の変が起きて、わずか11日で200km以上の距離(中国地方から京都まで)を秀吉は大規模な軍を率いて移動し、大阪と奈良の境目にあたる京都府山崎町で光秀を討伐した。
これが、世に言う「中国大返し」と「山崎の戦い」である。
この偉業は秀吉が天下取りに誰よりも近づく出来事となった。信長の仇と銘打って光秀を倒し、その後の立場は強いものとなったのだから。清須会議で強い発言権をもち、結果的に天下人となる。
当時、秀吉と光秀は信長から中国地方と四国への侵略を任せられていた。
日頃から信長に怨みをもっていた光秀に「2人で手を組み信長を葬ろう」と秀吉がそそのかし、信長の暗殺を決行させた。そうした仮説をもとに作った映画や小説もある。
信長が本能寺で死んだことを知ると、タイミングを見計らったかのように秀吉は猛スピードで長距離を移動し、わんさか敵の軍隊が潜んでいる中国地方を簡単に脱出し、京都まで帰還している。
中国地方は毛利家が仕切っていたが、信長の死後、毛利家は豊臣家の家臣となり、しかも豊臣家の重役として五大老に就任している。中国大返しの裏で、密かに毛利家と手を結んでいたのかもしれない。
あとは光秀と山崎で待ち合わせる約束を事前に交わしておき、口封じのために光秀を殺害したという見解。黒幕は秀吉で、その陰謀に光秀が踊らされたという説だ。
黒幕その2 毛利輝元と安国寺恵瓊
画像:©2017映画「関ヶ原」製作委員会
武田信玄が病死し、武田一族が滅んだあと、信長にとって脅威となったのは毛利輝元が治める中国地方だった。信長は秀吉を中国地方へ侵略させ、毛利家を織田家の配下につかせるように命じている。
輝元は織田家への服従を拒否し、豊臣軍に交戦していたが、いよいよ侵略が本格化すると危機が迫っていた。そこで輝元は毛利家に仕えていた僧侶・安国寺恵瓊に相談し、信長の暗殺を企てる。
当時、輝元は、信長に追われて訪ねてきた足利義昭を毛利家に住まわせ世話しており、将軍家と関わりのある光秀を説得し、交渉術に秀でていた安国寺恵瓊が光秀をそそのかしたのでは、という説もある。
同時に恵瓊は秀吉にも交渉し、「信長が亡きあと天下をとればいい。そうすれば毛利家は豊臣家の家臣として働く」という条件のもと、光秀が本能寺に向かっても信長の暗殺に目をつぶるよう説得。
しかし、恵瓊は頭がきれ、策士であり、用意周到な人物である。秀吉に”光秀の口封じ”を頼み、その代わり、中国大返しを全面的にサポートしたのではないかと推測できる。
あらかじめ秀吉が信長の暗殺を知っており、なおかつ毛利家や恵瓊のサポートがあったとすれば、わずかな期間で長距離を移動し、直ぐに光秀を討てたのも話の導線がつながる。
つまり、中国大返しや山崎の戦いとった秀吉の神がかり的な行動は”出来レース”だったわけだ。
事実、秀吉は清須会議で強い立場を確立すると、順調に全国の武将や大名を配下につけ、天下をとった。秀吉が天下をとると、すんなり毛利氏は豊臣家の家臣となっている。
毛利家や恵瓊は他の家臣よりも優遇を受けており、五大老の一人として丁寧に扱われていたとのこと。また、安国寺恵瓊は、こんな興味深い手紙を残している。
信長の時代は5年か3年か、そんな話だ。1年後には公家になるくらい出世するかもしれないが、そのうち、状況は一変するだろう。羽柴秀吉という男は優れた人物であり、この男が気になる。
といったような内容で、驚くことに、この手紙が書かれたのは1573年。本能寺の変が起こる9年前であり、未来を予言していたかのような文面である。
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