黒幕その3 足利義昭が計画した
信長は安土城の中に「清涼殿」を真似た御殿を造っていたことが現代の発掘調査で判明している。清涼殿とは将軍家が生活する場であり住まいであり、御殿(最上位の身分の人が住む家)である。
このことから信長は、天皇を安土に迎える計画を立てていたのではないかと考えられる。もし、そんな計画が実現したなら、信長は将軍家の地位を利用して実権を握ろうとするかもしれない。
将軍家が織田信長の家臣扱いになるなど断じてあってはならない・・・。危機感を抱いた足利義昭は将軍家の側近たちに指示を出し、秘密裏に信長の暗殺を企てたのではないだろうか。
計画を遂行するには信長に近づける人物を仲間にする必要がある。そこで白羽の矢が立ったのが光秀。土岐一族であり、過去に朝倉義景や足利義昭に仕えていたのなら、計画を実行させるのにピッタリの人物だ。
義昭は近衛前久、吉田兼見、勧修寺晴豊らに光秀を説得するように言い、やがて「時は今・・・」と決心した光秀は本能寺の変にて信長を討ったのではないかという説もある。
ところが、信長が死去したあと足利将軍の時代がくることなく、秀吉が天下をとった。秀吉が信長のような”よからぬ考え”をもたぬように、あえて公家しか許されない「関白」という地位を義昭は与えたのではないか。
天皇家と関りをもたせることで秀吉を監視下に置き、よからぬ考えや行動を起こさないように関白の地位を与えという推測もできる。あくまでも、推測の範囲を出てはいないが。
関白という地位は天皇を補佐し、政治をサポートする重役である。現代の政治の世界で言えば、内閣総理大臣を支える官房長官や国務大臣のような立場。いかに重職であったかがわかる。
※公家・・・天皇家に仕える貴族や上級武家。その中でも位の高い五摂家という公家として天皇家に認められていたのが近衛前久、吉田兼見、勧修寺晴豊らである。
黒幕その4 徳川家康の策略
本能寺の変が起きたあと、信長が死んだことで利益を得た武将がいる。のちの天下人、徳川家康である。本能寺の変以降、家康は山梨県と長野県の勢力を手中に収め、またたく間に領土を拡大した。
また、家康は信長の部下ではなく同じ大名という立場で「同盟者」。家康は軍事力や資金力もあり、信長が”脅威”を抱いていたと考えてもおかしくない。
明智憲三郎氏は自身の著書「本能寺の変 431年目の真実」で、
「もともと本能寺の変は家康を暗殺するために信長が計画したものだった」
と述べている。信長は家康の知識や兵力、人脈や資金力は災いの種になると考え、天下取りの一環として信長が信頼を寄せていた部下である光秀に”家康の暗殺”を命令したという見解である。
そして、暗殺の場として選んだのが本能寺。当日、家康を油断させるために信長は少数の家来だけを本能寺に連れていき、”接待”という名目で家康を招いた。
このとき、光秀は思っただろう。同盟者とはいえ、武田信玄との戦い(三方ヶ原の合戦)や姉川の戦いなど窮地を乗り越えてきた仲の家康を殺してしまうとは、あなたこそ恐ろしい人だと・・・。
信長は、姉川で家康に命を救われたも同然。さらに、家康は信長の命令で自分の妻と息子を切腹させている。徳川家のスパイだから排除しろ、と言われたからだ。このとき家康は、「力が無ければ妻子も守れない」と嘆いたという。
文武両道に秀でた光秀は仁義や情に厚く、人徳を大切にしていた側面もある。これまで協力したり天下統一を手助けしてくれた家康を簡単に殺すなど、光秀は信長に不信感を抱いたかもしれない。
そんな矢先、光秀は信長から「朝鮮への侵略」と「将軍家の滅亡」を望んでいることを聞かされる。いずれも光秀にとって納得のいかないことだらけ。いくら主君とは言え、信長に危機感を抱いても不思議ではない。葛藤の末、光秀は信長が暗殺計画を企てていることを家康に話す。
これを聞いた家康は光秀に協力を求め、説得し、「逆に本能寺で信長を討とうじゃないか」と提案し、手を組んだのではないかと。
当日、光秀は家康が本能寺に行く前に一足先に本能寺へ到着し、信長を襲撃したのではないかと。
のちに光秀の家来だった本城惣右衛門は、「まさか信長を討つとは思わなかった。てっきり、家康を暗殺するために本能寺へ行くのだと思っていた」と本城惣右衛門覚書に書き残している。
つまり、出陣した明智軍の家来たちも知らされておらず、現場に到着してから「敵は信長だー!」と聞いて兵たちも驚いたというわけだ。
光秀は信長を討ったあと、主君に対する最後の”思いやり”として信長の遺体を内密に運び、埋葬したのではないかと明智憲三郎氏は述べている。
だから、本能寺の変で信長の遺体は発見されなかったのではないかと。信長の死去を知ると家康は光秀の援軍に向かおうとしたが、秀吉の脅威のスピード(中国大返し )に追い付けず断念した。
光秀が討たれたことを知った家康は、きっと心を痛めただろう。その想いは意外なところに隠されている。
日光東照宮には明智家の家紋(桔梗紋)が所々に刻印されており、日光には「明智平」という場所もある。光秀が亡きあと、明智家の家臣たちを家康は徳川家に受け入れ、面倒をみている。
光秀の側近だった斉藤利三の娘(春日局)を丁寧に扱い、徳川家光の乳母として徳川家に迎え入れている。そして、ミステリアスな人物もいる。
それは南海坊天海だ。この天海は光秀だという説もあり、山崎の戦いで生き延びた光秀が南海坊天海として余生を過ごしたと噂がまことしやかに囁かれている。
徳川家康が南海坊天海と初見した際、側近や家来を部屋から出し、二人きりになり、4~5時間ほど話し込んでいたそうだ。初めて会う人物と二人きりになるとは不思議な話である。
危険な相手ではないという信頼がなければ、できないことだろう。さらに、こんな話もある。
春日局と南光坊天海が初めて会ったとき、春日局は南光坊天海に対して深く頭を下げ「お久しぶりです」と挨拶したという。徳川家の人間が、初めて会う僧侶に、しかも身分が自分よりも格下の相手に深く頭を下げ、お久しぶり”です”というのは不思議な話である。
自分の父親の主君であり、敬意を払うべき相手で、お世話になった人物だったとしたら・・・。それは、つまり天海は明智光秀だったのではないだろうか、という推測につながる。
日光東照宮に彫刻されている「見ざる・言わざる・聞かざる」、これにも何かしらの意味があるのではないだろうか。日光東照宮には家康の墓がある。とても興味深い説である。
※本城惣右衛門覚書・・・本城惣右衛門が体験した本能寺の変に関する事柄を書き記し、寛永17年(1640 年)に親族と思われる三人の人物に宛てた5000文字ほどの短い記録書である。
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