伊達政宗と宮城・秋保温泉
画像:伊達政宗の騎馬像(仙台城)
伊達政宗が仙台の領主になったときに一早く取り掛かったのが湯浴み御殿(専用の温泉宿)の整備。
その場所が、群馬県渋川市の伊香保温泉でした。やがて、庶民でも入れるように改築され、現在も残る「旅館・佐勘の名取の御湯」になります。伊達家の隠し湯として、先祖代々にわたり守られてきた政宗ゆかりの温泉地です。
また、宮城県柴田郡の青根温泉も政宗が重宝した湯で、青根御殿に滞在した政宗は感激のあまり"この地を忘れることはない”という意味で「不忘」と名付け、青根温泉・湯元不忘閣は当時の風格を保ったままです。
さらに、小野小町が偶発的に発見したといわれる小野川温泉も政宗ゆかりの温泉地。1589年あたりから政宗が湯治のために足を運んでいたと伝えられており、父の輝宗も小野川温泉にお気に入りの温泉宿があったそうですよ。
豊臣秀吉と兵庫・有馬温泉
画像:豊臣秀吉の銅像(有馬温泉)
日本三古湯の一つ、兵庫県神戸市の有馬温泉。時代と共に多くの著名人や文化人が足を運び、日本書紀では舒明天皇が滞在したとも伝えられる言わずと知れた国内屈指の名湯です。
天下人の豊臣秀吉も有馬温泉に魅了された一人で、有馬の温泉地には秀吉の銅像をはじめ、太閤橋や太閤通り、ねね橋には茶々(淀殿)の銅像も建てられています。
秀吉が初めて有馬に足を踏み入れたのが1583年(諸説あり)のことで、その後、改築や増設を繰り返し、1590年には千利休や津田宗及が茶頭を務める茶会を蘭若院阿弥陀堂で催しました。
また、豊臣の家臣である黒田官兵衛も有馬温泉を深く愛していたといわれ、年々、弱まっていく足腰の治癒に有馬温泉を利用し、1週間で11回も入浴したという言い伝えが残されています。
天下人と名軍師が愛した有馬温泉、一度は訪れてみたいものですね。
上杉謙信と富山・生地温泉
画像:上杉謙信の銅像(春日山城)
上杉軍が越中(富山県)に進軍している途中、上杉謙信が急に脚気※を起こして意識不明の危機に直面し、心配した家臣らが新治神社で祈願したところ、謙信は不思議な夢を見たそうです。
※脚気・・・ビタミンB1欠乏症の一つで、場合によって心不全や末梢神経障害を引き起こす
それは、「明朝の卯刻(午前7時頃)に外へ出ると白い鳩が現れるので後をついていき、その鳩が杖の上に止まったら、そこを杖で叩きなさい。そうすれば湯が沸き出るので湯治しなさい」というお告げでした。
お告げに従った謙信は湯に辿り着き、入浴したことで完治したと伝えられていますが、その伝承が残る温泉が富山県黒部市の生地温泉です。謙信は感動し、新治神社でお礼参りした際に自らの手で松を植えたとされています。
この言い伝えには諸説ありますが、謎が多い謙信らしい神秘的な逸話ですね。ほかにも、武田信玄が重宝したと言われる長野県須坂市の仙仁温泉は、川中島の戦いの際、謙信や上杉の兵らも湯治として利用していたそうです。
徳川家康と静岡・熱海温泉
画像:狩野探幽・画「徳川家康」の肖像(大阪城天守閣)
有数の観光名所でもある静岡県熱海市の熱海温泉は、徳川家康ゆかりの温泉地。熱海温泉の起源は古く、仁賢天皇の時代までさかのぼる古湯です。
また、熱海の伊豆山権現(伊豆山神社)は初代足利将軍の源頼朝が保護したとされ、歴々、関東の武将たちが崇敬し、源氏に特別な感情をいだいていた徳川家康も例外ではありません。
武家政権の基礎を築いて初の征夷大将軍となった源頼朝は神に値する存在だったのかもしれません。家康が初めて熱海に足を踏み入れたのは慶長2年(1597年)と言われています。
その7年後に息子の義直と頼宣を連れて湯治に訪れ、17日ほど滞在したといいます。また、熱海の湯が疲労や健康の回復に効くと知った家康は、京都で療養していた毛利の家臣・吉川広家に熱海の湯を届けたと伝えられています。
江戸時代には、徳川御用達の温泉になり、徳川4代目将軍の徳川家綱は熱海の湯を江戸城まで運ぶ「御汲湯」という仕組みを設け、熱海7名湯の一つである大湯の湯を檜(ひのき)の樽に汲んで昼夜を問わず15時間もかけて江戸まで運ばせていたそうです。
日本が誇る温泉という文化
さて、今回は戦国武将が愛した温泉地を紹介しましたが、温泉は日本が誇る文化の一つでもあります。それぞれの温泉で効能や特徴に違いがあり、また、春夏秋冬に応じて様々な風情を感じさせてくれます。
季節は日本特有の文化ですし、温泉で季節を感じながら戦国武将に思いを馳せてみるのもいいかもしれませんね。