なぜ悪いイメージが定着したのか
画像:徳川家康の肖像(大阪城天守閣)
さて、嫌われ者として後世に語り継がれてきた三成ですが、当時の武将たちは本当に三成のことを嫌っていたのでしょうか。史料とは、その時々の権力者によって"書き換えられる"という話がありますが、ここで少し考えてみましょう。
- 三成に対し、嫌悪感を抱いていたのは誰か
- もし史料を書き換えられるなら、そんな権力をもっていたのは誰か
この二つから浮かび上がってくるのは・・・そう、徳川将軍家。江戸時代が始まると徳川幕府の支配下になったわけで、関ケ原の戦いに至るまでの史実に変化を加えた可能性もゼロではありません。
とくに三成の場合、家康の討伐を先頭で引っ張っていた張本人ですし、その後の徳川家の信用や正当性を高めるためにも三成にとって有利に働く事柄は伏せておきたいというのが本音ではないでしょうか。
いっそのこと嫌われ者にしちゃえ・・・なんてことも。
もし三成が嫌われ者で無能な人物だったなら、引く手あまたの猛将・島左近が三成の家臣という点が納得いかないのです。左近は三成の側近を務めていましたが、有能な才覚をもち、武術の腕も確かで、指折りの武将として一目置かれていた男です。
画像:©2017映画「関ヶ原」より島左近(映画「関ヶ原」製作委員会)
もともと左近は秀吉の家来になることを強く望んでおり、秀吉の直近で働けないなら死んでもいいと思っていたほど。そこに現れたのが秀吉の側近であった三成。
「1万5000石を差し上げるから私の側近として力を貸してくれないかな」と左近をスカウトしたのが始まりでした。はじめ左近は断りましたが、しばらくして真剣に悩むようになります。
はっきり言って左近レベルになると1万5000石は大した価値じゃありません。左近なら10万石もらっても不思議じゃない武将だったので。しかし、この1万5000石が左近の心を動かしました。
当時、三成の地位は武家に成り上がったとはいえ所領は3万石。その半分を左近に差し出したわけで、三成の心意気に胸を打たれた左近は側近として仕えることを承諾したと言われています。
しかも左近は関ケ原の戦いで命を燃やし、合戦で戦死しました。後世に書かれた文献には、「三成に過ぎたるもの(三成にはもったいないもの)。それは島左近だ」と書かれ、やはり嫌われ者として"叩かれて"いるんですね。
それでも左近が三成の家臣であったことは確か。誰もが欲しがる男が三成の家臣だったこと、それが意味するものとは大きいように思えます。そして、何よりも滋賀県民の心に石田三成が根付いているということ。
さて、あなたは石田三成に対して、どのような印象をもっていますか?
出典:拝啓 石田三成様<滋賀県から石田三成公へのメッセージ>
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