持ち前のガッツと積極性で返り咲く
画像:刈屋城(刈谷城)跡
城主になっても相変わらずの破天荒ぶりで、派手な格好や奇抜な言動が目立っていたようです。そして、いよいよ戦国時代に終止符を打つ最後の戦い「大坂の陣」にも参陣しますが、ここでも傾奇者っぷりを見せた勝成。
徳川家の"お偉いさん"から「勝成くん、一人で勝手に敵陣に乗り込んだり手を出したりしちゃダメだよ」と注意を受けていましたが、思いっきり忠告を無視して誰よりも早く敵の兵を討つ(一番槍)という行動に・・・。
50歳を超えているというのに、いくつになっても小牧長久手の戦いで父親の忠告を無視した20代のまんま。
さらに、驚くことに宮本武蔵は勝成の部下だったようで、武蔵は大坂夏の陣に参陣したという記録が残っています。
水野軍のメンバーリスト(備後福山藩史料「大坂御陳御人数附覚」)に武蔵の名が記されており、勝成の息子・勝俊の護衛についていたというのです。武蔵、30代半ば。剣豪・武蔵をも配下につける勝成、やはり規格外ですね~
水野軍は大坂夏の陣で最も激しい合戦を繰り広げた部隊であり、勝成と勝俊も前線で戦い、後藤又兵衛、薄田兼相、真田幸村、明石全登が率いる部隊を打ち破っています。
勝成と勝俊が前線で戦っていることから、護衛についていた武蔵も必然的に前線で戦っていたということになりますね。(水野勝利・著「水野日向守覚書」より参照)
当然ながら勝成が隊を指揮していたわけですが、勝成は"お偉いさん"の「行ってもいいよー」を待たずに我先にと敵方の兵を討ち取ったんですよ(単騎の抜け駆けと言う)。やっぱり、言うこと聞かない・・・。
ちなみに数年後、武蔵は勝成の家臣・中川志摩之助の息子を養子にしています(吉備温故秘録より)。勝俊の護衛に任命されたこと、家臣の息子を養子にしたこと、勝成が武蔵のことを信頼していたことが分かります。
一説では大坂夏の陣で武蔵は豊臣軍として戦い、豊臣家が滅びたあとは放浪の旅に出たという説もありますが、まず、根拠のない憶測と言ってもよいでしょう。つまり、そんな話はフィクションだと思ってください。
水野勝成は大坂夏の陣での功績を称えられ、数ある大名や武将がいる中で「戦功第二(2番目に戦功を挙げた)」として大和郡山(奈良県大和郡郡山市)に6万石を与えられ、のちに備後福山(広島県福山市)の福井藩主となるのです。
参考:宮本武蔵は本当に「関ケ原の合戦」と「大坂夏の陣」で戦ったのか?
備後福山藩の初代藩主になる
画像:左・現在の福山城、右・国宝「三層伏見櫓」
豊臣が滅び、家康が天下を取ると徳川幕府=江戸時代の幕開け。幕藩体制が成立し、各地に藩が置かれ、家康は藩主に藩の政治や運営を任せました。幕藩体制に伴い勝成は、現在の広島県福山市に備後福山藩を起ち上げます。
四国や九州には家康に恨みをもつ武将(豊臣家の家臣だった者たち)も多かったため、一種の"見張り役"として勝成を福山に置いた理由とか。その後、勝成は徳川家から「日向守」という官職を与えられますが、ここでも傾奇者っぷりは健在。
この日向守、当時は嫌われていた役職だったんです。なぜなら、本能寺の変で信長を討った明智光秀が日向守だったんですね。しかし勝成には、そんなことお構いなし!
「結構、結構。裏切者の役職なら俺が日向守の歴史を塗り替えてやるわ」そんな感じで笑い飛ばし、むしろ喜んでいたそうです。(セリフの表現は手を加えているのでご理解を)
合戦もなくなり槍を振るえずウズウズしているかと思いきや、勝成は藩の内政に力を注ぎ、当時としては珍しい「武士の上下関係を無くす」という取り組みを藩内で行いました。
また、戸田川の土木(治水工事)でも手腕を発揮し、「福山」の地名をつけた張本人でもあるんです。
さらに、肥後(佐賀県)で起きた1637年の島原の乱では九州の大名や武将らで討伐軍が編成されますが、このとき九州の外から唯一参陣したのが75歳の勝成。
相談役として呼ばれた勝成は自分の息子・勝俊に「お前が真っ先に敵陣の本丸に乗り込んで一番槍を挙げてこい!」と尻を叩き、勝俊も期待に応えるように奮闘したそうです。
島原の乱が終わると勝俊に2代目を譲り、自分は隠居生活。勝成は88歳でこの世を去るのですが、その1年前には酒の席で鉄砲を撃って的に命中させて周りの者を驚かせたという逸話も残っています。
まさに、戦闘本能むき出しの傾奇者。戦国武将で「傾奇者は?」と聞かれたら、間違いなく水野勝成を推しますね。
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