桔梗紋を背負った者たちの悲劇
画像:明智光秀像(本徳寺)
その一. 明智光秀
光秀が「土岐氏」と強いつながりをもつ武将であることは知られていますが、土岐氏は美濃(岐阜)を中心に栄えた大名で足利将軍を支えた一族です。その末裔が光秀。
一説には、平安時代には桔梗のほかに「岡に咲く神草」という意味で「岡止々支(オカトトキ)」とも呼ばれており、土岐氏が本拠としていた土岐の地にはトトキが咲き、このことに由来して「土岐」と名付けられたそうです。(諸説あり)
また一説によると、土岐氏の祖先・土岐光衡が合戦の前に野に咲く一輪の桔梗の花を兜に挿して戦って勝利し、桔梗の花はまるで兜に根を生やしたように生き生きとしていたことから勝利の神として光衡は桔梗を家紋にしたとか。(諸説あり)
そんなこんなで光秀も桔梗紋を掲げていたのですが、織田信長から厚い信頼を寄せられ幾多の合戦に従軍しながらも、最後は謀反を起こし本能寺で信長を討ち、逆賊として山崎で豊臣軍に討たれました。
一旦は退くも逃走中の山中で豊臣の兵士(農民という説もあり)に深い傷を負わされ自害した、というのが通説ですが、秀吉のもとに届いた光秀の首は顔面が崩れていて判別がつかない状態だったらしく、本能寺で信長の遺体が見つかっていないのと同じように光秀の死にも謎が残っています。
挙句の果てには「光秀は誰かにそそのかされて信長を殺した」などという本能寺の変”黒幕説”まで囁かれており、本能寺の変や光秀の死は未だ解明されていない謎が多くて戦国史を代表するミステリーとなっていますね。
引き続き、後編でも「桔梗紋を背負った」4人の人物と、その末路を紹介したいと思います。加藤清正や坂本龍馬、上野戦争の立役者である大村益次郎など歴史に名を残す偉人ばかりですね。
後編は、こちら↓
明智光秀と坂本龍馬の共通点は「悲劇の家紋」だった?(後編)
この記事へのコメントはありません。