官兵衛、息子に問う
画像:関ヶ原の合戦 黒田長政・竹中重門陣の跡
秀吉の死後、関ケ原の戦いが勃発すると、官兵衛の息子・黒田長政は家康に加勢し、徳川軍が勝利すると筑前国(福岡中部)を拝領し、52万石の大名になる。
長政は福岡城を建て、そこに官兵衛は隠居した。大人しく老後を送ったかと思えば、そうではない。隠居後も、その凄みは衰えなかった。官兵衛の”したたかさ”を物語る、こんなエピソードもある。
関ヶ原の戦いが終わり、長政は官兵衛に報告する。
「父上、家康様が私の功績を喜んで、右手をガシッと握って褒めてくれました!」
家康に褒められ喜び、浮かれて帰ってきた長政に官兵衛は言った。
「ご苦労さん。それで満足か?」
官兵衛の浮かない表情に長政は疑問を返す。
「どういう意味ですか?東軍は勝ったんですよ!しかも、褒められましたし!」
官兵衛が重い口を開く。
「ならば尋ねる。息子よ、家康に右手を握られたとき、お前の左手は何をしていた?」
しばらく息子の長政は考える。
「とくに何も・・・」
「お前は最大のチャンスを逃したな」
その言葉を聞いた長政は我に返り、官兵衛を直視するのが怖かった。つまり、「お前の左手で無防備な家康を討つことができたのでは・・・」という意味だったからだ。
つねに相手の隙を狙い、その隙を逃さなかった官兵衛ならではのエピソードと言える。
官兵衛、口うるさい爺さんになる
画像:墓-黒田如水(崇福寺)
年をとった官兵衛は前線を退き、隠居していたわけだが、口うるさくて小言も増え、家来から煙たがられることも多かったという。そんな状況を見かねた長政は官兵衛に直談判する。
「父上、家来たちが困っています。いちいち小言を言うのはおやめください。みんな気分が優れなくてモチベーションが下がってしまうから黙っていてください」と。
この注意に官兵衛は、こう返した。
「お前は、まだまだ未熟だな。私が死んだとき、あ~口うるさい爺さんがいなくなってスッキリした!ぐらいのほうが、跡を継ぐ者は好感度が上がって楽だろ。あの爺さんに比べると長政様は神様、ってなるだろ?」
かなり屁理屈だが、文句を言われても相手を説得しようとする姿勢は天才軍師の証なのだろう。
ところで、もし関ヶ原の合戦が1日で終わっていなければ、官兵衛は天下を狙っただろうか。
たとえば、三成と家康が関ヶ原で兵力を消耗している間に官兵衛が九州をまとめて勢力を拡大する・・・という絵図だが、結論を言えば、それは無いだろう。
才覚はあっても兵力や人脈が乏しい、そんなことは天才軍師なら簡単にわかる。
官兵衛が関ケ原の合戦中に九州で武士や農民を雇って兵を集めていたのは勢力拡大を目論んでいたわけではなく、便乗して領地を拡大するための戦力を増強していただけの話。
家康からは「切り取り次第(自分で取った領土は、そのまま貰っていいよ)」と言われていたし、天下の覇者を決める戦いで好きに戦える最後のチャンスだと思っていたに違いない。
官兵衛は策略家であっても、生粋の”喧嘩人”なのである。戦国の乱世で合戦に揉まれ、信長や秀吉の右腕となり”したたか”に自分の地位を確立してきたのだ。
その後、59歳で病を患い、京都の伏見屋敷で療養するも、病状が悪化し他界。天才軍師と言われた男も病気を治す知恵は持ち合わせていなかった・・・というわけである。
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