川中島の戦い、開戦
1553年、1回目の川中島の戦いが幕を開ける。長野県の八幡が決戦場となり、無事、謙信は葛尾城を取り戻すことに成功。しかし、信玄の勢いは止まらずに長野県を領地にしようとする動きは活発になっていく。
布施で再び激突するが、決着がつかずにお互い兵を引き上げ、この合戦は幕を閉じた。
画像:武田信玄之像(甲府駅前-山梨県甲府市丸の内)
1555年、2回目となる川中島の戦いが犀川(さいがわ)を挟んで行われたが、今川義元の仲介により和解することで合戦は終了。
1557年には2回目となる川中島の戦いで上野原を舞台に衝突するが、謙信が兵を引き上げたことにより信玄の領地拡大が成功する。
1561年、4回目に行われた川中島の戦いは、これまでとは比べ物にならないほど数多くの犠牲者を出す結果となり、八幡原で戦った。謙信の作戦が上回り、信玄に危険が迫る。
謙信は合戦が行われる前、妻女山に陣を構え、そのことを知った信玄は1万2000人の武田軍を妻女山に送り込み奇襲をかけようとしたが、この動きを察知した謙信はこっそりと信玄の本陣がある八幡原まで近づいた。
妻女山に到着した武田軍は「やばい・・・誰もいない」と、作戦がバレていたことに気づいて八幡原に引き返すが、謙信の仕掛けた罠のせいで足止めされてしまう。
朝方、霧が晴れた頃、信玄は辺りを見回すと信じられない光景に驚く。今頃、妻女山でジタバタしているはずの謙信が2万人の軍隊を率いて自分の目の前に立っているたのだ。
この時点で謙信の兵力は圧倒的に有利。信玄は妻女山に1万2000人の軍隊を送っていたので、八幡原に残っていたのは8000人だった。
2万人VS8000人ではさすがの信玄も死を覚悟しただろう。しかし、武田軍には有能な命知らずの武将が大勢おり、必死に抵抗して信玄を守った。
どうしても決着をつけたい謙信は馬にまたがり信玄の頭を目掛けて斬りつけようとしたが、信玄はこれを見事に防いだ。そうしているうちに妻女山から武田軍が戻ってくる。
謙信は兵を引き上げて新潟へと帰還した。この戦いで弟の武田信繁、山本勘助など多くの有力武将を失った信玄だったが、結果的には長野県の要所を領地にすることができた。
しかし、謙信との争いに決着がついたわけではなく、油断できない日々が続いた。川中島の戦いと聞くと、一ヶ所での合戦をイメージしがちだが、このように至るところで合戦は行われていたのだ。
「八幡」「布施」「犀川」「八幡原」「塩崎」で起きた全ての合戦を総称して川中島の戦いと呼ぶ。
1564年に5回目となる川中島の戦いが塩崎で行われたが、またしても勝敗がつくことはなく合戦は終了。信玄の病死によって、この戦いが最後となった。
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