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これぞ忠義の武将!主君・後醍醐天皇に命を捧げた「楠木正成」とは?

湊川の戦い「桜井の別れ」


画像:史跡「楠木正成公戦没地」(湊川神社)

正成は後醍醐天皇に従って尊氏を討つため「湊川(兵庫県神戸市)」に出陣します。迎え撃つ尊氏の軍勢は圧倒的な兵力で、正成は自らの命を捧げて主力部隊を京都へ逃がすという男気あふれる最期を遂げることになります。

この「湊川の戦い」において、今なお語り継がれているエピソードが「桜井の別れ」です。

死を覚悟した正成は共に出陣していた息子の正行に2000の兵を連れて故郷(大阪府南河内郡千早)に帰るよう桜井(大阪府三島郡島本町の桜井)で伝えます。

「父上と一緒に!」と言い返す正行に対し、「もし私が死んでも楠木家の誰かが生き残っていたら最期まで天皇に仕えて戦い抜くのだ!」と正成は言い残し、700の兵を率いて湊川に向かうのです。

そして、正成は義貞と合流し、1335年6月16日、海を挟んで湊川で足利軍と対峙。正成は楠木軍700騎で湊川の西に布陣を構え、陸地から攻めてくる足利軍に備えていました。

しかし、光厳上皇の後ろ盾を得た北朝連合軍は多勢で、正成と正季(正成の弟)は玉砕覚悟で足利直義の軍勢に突撃。楠木家の家紋である菊水の旗を掲げ奮闘した結果、義直の軍勢を須磨の上野まで退却させました。

尊氏は新たに6千に及ぶ大軍を湊川に送り込み、これを正成は迎え撃つのです。次第に楠木軍は消耗し、ついに残りの兵は73人に・・・。やむを得ず近くの民家に逃げ込み、自害しようと甲冑を脱ぎ捨てました。

太平記16巻によると、正成の体には湊川で負った切り傷が11か所もあり、ほか72名も同じように深手を負い、この状況を嘆いた正季は「7度生まれ変わって北朝を滅ぼしたい」と言ったそうです。

正成も同感し、最期に「諸君さらば」と別れを告げ正季と刺し違えて自害。後を追うように橋本正員や宇佐美正安、神宮寺正師や和田正隆など楠木家の一族16人と家人50人も自害したと言われています。

正成の首は足利軍に回収され、六条河原に吊るされました。その後、尊氏は楠木家に敬意を払い、正成の首を故郷である河内に送り届けています。

息子の正行、正時、正儀も最期まで戦い、正行と正時は四條畷で戦死し、南北朝の戦いが北朝側の勝利で終わると、南朝に加勢した正成は反逆者(朝敵)として処理されてしまいます。

しかし、正成の子孫・楠木正虎が正親町天皇に懇願し、1559年、正成は反逆者の汚名を返上し、主君に尽くした忠義の将として名誉を取り戻すことができました。

語り継がれる「賢才武略の勇士」


画像:湊川神社

南朝側の正成は一時は反逆者として扱われるも、「賢才武略の勇士、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と敵から絶賛され、その英雄ぶりは後世にまで語り継がれることになります。

正成が没した直後の1400年代に発刊された「太平記」※には知略をもって勇敢に戦う正成が描かれており、また、足利の視点で書かれた「梅松諭」(1400年代の歴史物語)ですら、正成を英雄と称えるような表現で同情的に描いているんです。

※太平記

歴史文学作品。全40巻。南北朝時代を背景に後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、建武の新政と崩壊後の南北朝の戦い、観応の擾乱、2代目将軍・足利義詮の死と細川頼之の管領就任までを描いた軍記物語。

太平記は史実を知る資料の一つとして時代を超えて読まれ、たとえば豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛を評価する際には「昔は楠木、今は竹中」と言ったり、江戸時代には徳川光圀が「正成、忠臣の鑑(かがみ)」と大々的に表彰し、湊川にある正成の墓に「鳴呼忠臣楠子之墓」と刻んだ石碑を建てました。

さらに幕末の異端児・吉田松陰をはじめ、血気盛んな侍たちが湊川の「鳴呼忠臣楠子之墓」の碑に手を合わせて正成の面影に想いを馳せたと言われています。

武将という明確な位置づけがなかった鎌倉時代において知略と果敢な武力を備え後醍醐天皇に忠義を尽くした正成は、後世の武将たちの胸を熱くさせる勇士のような存在だったのです。

英雄、楠木正成


画像:皇居外苑(東京都千代田区)

胸を揺さぶる"男気"だけでなく、正成は軍略の達人としても評価されており、当時としては斬新かつ実践的な戦略や軍法なども後世の人々に与えた影響は大きいと言えるでしょう。

また、尊氏が光厳上皇の院宣を得たときに後醍醐天皇へ和解を進言する機転の良さなどから、合理的な判断能力と冷静に状況を整理できる分析力があったことも分かります。

正成の本拠地である大阪は古くから様々な土地柄の人が行き来する町で、商人や僧侶など幅広い人と交流しており、外部からの情報に敏感であったことも優れた知識や判断力が備わった要因の一つではないでしょうか。

そして何より忠義という名の誠実さ、私欲を介入しない忠誠心といった"侍スピリッツ"が前提にあるからこそ、正成が英雄と称えられる所以なのかもしれません。

皇居外苑に威風堂々と建てられた正成の銅像は、隠岐から生還した後醍醐天皇を迎えたときの姿と言われ、皇室への忠君、または愛国を示すシンボルと言われています。

武将といえば戦国時代がクローズアップされますが、胸を熱くさせる私たちが思い描く武将の理想像が正成にはあるのです。

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