戦国時代でスカウトしたい「鈴木孫一」(鉄砲隊)
画像:鈴木孫一 ©コーエーテクモゲームス
戦国時代、「雑賀衆が仲間なら勝ち、敵にすれば負ける」と噂されるほど強豪だった集団の棟梁が鈴木孫一。本名は鈴木重秀で、孫一という名は雑賀衆(さいかしゅう)の棟梁が代々受け継ぐ名前でした。
生没 | 不詳 |
出身 | 不詳 |
主君 | 基本的に主君はおらず、信長に降伏したのち、豊臣秀吉に仕えた |
親族 | 不詳 |
特徴 | 雑賀衆の棟梁 鉄砲の名手 石山本願寺 織田信長 |
どこで生まれ育ち誰が親なのか不明。基本的に主君はおらず、信長が石山本願寺と対立した際には一揆衆の一員として雑賀衆も織田家に敵対し、得意の鉄砲隊で信長を苦しめています。
鉄砲の腕前のみならず製造の技術も優れており、「雑賀衆が相手なら厄介だ」と言わしめるほどの集団だったようです。孫一が愛用した鉄砲は、当時としては最新の火縄銃でスペックが優れていたとされています。
雑賀衆とは?
画像:鈴木孫一ゆかりの地「矢宮神社」(和歌山市関戸)
和歌山県の紀の川あたりを拠点とし、5つの郷(村または地域)の地侍たちで結成されている武装集団が雑賀衆です。普段は農業や漁業、水路の運搬業で生計を立て、大名や武将から援軍の依頼が来れば兵隊として戦っていました。
5つの郷・・・雑賀荘、十ヶ郷、中川郷、三上郷(南郷)、社家郷(宮郷)。雑賀五組とも呼ばれていた
雑賀衆の武器といえば鉄砲ですが、雑賀衆が鉄砲を用いるようになったのは1545年以降です。2挺の火縄銃がポルトガルから種子島に伝来した際、そのうちの1挺が雑賀衆の手に渡ったことが由来とされています。
その火縄銃を分解したり構造を研究したりしながら鉄砲を製造することに成功し、硝石で銃弾をつくり、大量生産しました。鉄砲を主力にする以前から強豪ぶりは知れ渡っていましたが、銃をもつようになり、さらに脅威の集団として恐れられました。
やがて、織田信長が天下取りを本格化すると、信長と石山本願寺(大阪)が対立します。この戦いにおいて雑賀衆は三好三人衆(石山本願寺の仲間)に加勢しますが、中川郷・三上郷・社家郷の雑賀三組は信長に加勢し、雑賀衆は分裂。
孫一が率いる雑賀二組(雑賀荘・十ヶ郷)は徹底的に織田軍へ攻撃を加え、信長を苦しめました。さらに、1000挺の火縄銃を用立てて、石山本願寺に贈ったともいわれています。