慶喜の謹慎と江戸城無血開城
画像:江戸開城談判(聖徳記念絵画)
大阪城から江戸城に逃げていた慶喜は明治天皇に反抗する意思がないことを示すために、2月12日から上野の東叡山寛永寺大慈院で謹慎生活を送る。
また、2月8日には旧幕府の中心人物であった小栗忠順(小栗上野介)を解雇している。さらに、もはや、これまで・・・と戦意を失った慶喜は新政府軍に謝罪の書面も送った。
その頃、徳川家の家系にあたる一橋家の家臣たちは慶喜の汚名を晴らそうと士気を高め、浅草本願寺を本部とした旧幕府の軍隊「彰義隊」を発足していた。
最大で兵力は3000人に達し、旧幕府は謝罪どころか戦意を示す状況となってしまう。新政府軍は徳川に攻撃する日を4月7日と定め、江戸へ向けて出軍する。
旧幕府の勝海舟は江戸で戦争が起きれば多くの市民が巻き込まれることを懸念し、新政府軍が江戸に攻撃を仕掛ける前に悲惨な事態を回避したいと考えた。
勝は坂本龍馬を紹介したほど薩摩藩の西郷隆盛とは旧知の仲であり、江戸への攻撃を回避するために4月5日に西郷と江戸の薩摩藩の宿舎で会談する。
勝は江戸城を新政府に引き渡すことを条件に、二人の話し合いによって4月7日の攻撃は回避された。4月11日、慶喜は上野から水戸へと場所を移され、引き続き謹慎。
5月3日、正式に江戸城無血開城が行われた。一滴も血を流さずに話し合いで解決したことから「江戸城無血開城」と呼ばれている。
当時、江戸の住人は100万人を超えていたため、江戸が戦火に巻き込まれると大惨事を招いていたことは間違いない。武力回避の降伏として、 勝を代表する歴史的な出来事となっている。
甲州勝沼の戦い
鳥羽伏見の戦いが終わったあと、江戸城無血開城が締結される前の3月29日に山梨県で「甲州勝沼の戦い」が行われているが、これも戊辰戦争の一つである。
柏尾の戦いや甲州戦争、甲州柏尾戦争とも呼ばれ、板垣退助が率いる新政府軍と近藤勇が指揮をとる旧幕府軍が戦った歴史的な出来事と言えるだろう。
新選組といえば、もはや説明の必要がないほど知名度が高い徳川お抱えの親衛部隊。1862年に結成され、幕府の指揮下で京都の治安維持などに従事していた。
鳥羽伏見の戦い、淀千両松の戦いで旧幕府軍の一員として戦うが新政府軍に敗れ、新選組は江戸へ戻っている。新政府軍は追撃するために東海道、東山道、北陸道に分散して江戸に向けて進軍した。
その後、新選組の局長・近藤勇は江戸城に出向き、勝海舟から「幕府の重要な管轄地である甲府を新政府軍に押さえられる前に守護せよ」との指示を受けて山梨に出軍。
新選組70名と弾直樹(13代目弾左衛門)の配下200名で編成された混成部隊「甲陽鎮撫隊」を結成し、このときに近藤勇は大久保剛へ、副長の土方歳三は内藤隼人へと名前を変えている。
勝の命令に従い、近藤は甲陽鎮撫隊を率いて3月24日に江戸を出発し、甲州街道を進軍した。
しかし、近藤は軽はずみな行動をとってしまう。兵の士気を高めるために幕府から支給されていた5000両の軍資金を使い、宴会を連日のように繰り返しながら進軍したのだ。
その姿は大名行列を思わせるほど豪華だったそうで、この行いが山梨への到着を遅らせる原因になってしまう。また、移動の邪魔になると判断し、道中で6つの大砲を2つに減らした。
画像:近代人物1-近藤勇(国立国会図書館)
近藤は新撰組の剣術を過信しており、銃撃や大砲など必要ないと考えていた傾向があったという。そうこうしているうちに天候が悪くなったり、あれこれしながら時間を浪費したのだ。
一方の新政府軍は3月27日、旧幕府軍よりも先に甲府城を占拠。この時点で近藤は、勝の命令を守れなかったという大きなミスを犯したことになる。
新政府軍は板垣退助が指揮をとり、12小隊600名の土佐藩・迅衝隊と鳥取藩の8小隊800名で編成した計1400名の軍隊で甲府城に陣をかまえた。
これを知った甲陽鎮撫隊は勝沼から前進し、甲州街道と青梅街道の境目で陣をかまえる。しかし、出発時は300名いた兵も恐れをなして次々と脱走し、最終的には121名まで減ってしまう。
3月29日、山梨市一町田中と歌田で迅衝隊と甲陽鎮撫隊で戦闘が始まるが、600名VS121名の戦いでは結果が見えている。西洋式の戦法や武器、大砲を駆使した迅衝隊が圧倒し、近藤は勝沼の柏尾坂へ後退。
甲陽鎮撫隊は必死に抗戦を続けるが、さらに兵は脱走し、八王子へ退却したあとに解散する。逃走する近藤は土方歳三と合流し、江戸へと戻った。
甲府城の新政府軍は近藤のあとを追って江戸へ向かい、市ヶ谷の尾張徳川藩の宿舎(現在の防衛省)に陣をかまえ、新宿方面を徹底的に警備した。その数日後に江戸城無血開城が締結された。
宇都宮城の戦い~上野戦争
画像:宇都宮城(栃木県宇都宮市HP)
さて、勝と西郷の話し合いによって正式に行われた5月3日の江戸城無血開城だが、すべての関係者が納得していたかといえば、そうではない。旧幕府軍のなかには快く思わない者もいたのだ。
不満を抱いた旧幕府の榎本武揚は5月4日に海軍を率いて館山で戦闘準備を整え、陸軍を率いた大鳥圭介は市川に入り、福田道直は撒兵隊を率いて木更津に潜伏した。
また、伝習隊や桑名藩、新撰組の残党で編成された3200の旧幕府の軍隊は徳川家の聖地である日光東照宮と大猷院に陣をかまえ、新政府軍と戦うために江戸を脱走していた。
このとき、日光に出向くはずの近藤勇は潜伏先の千葉県市川市で新政府軍につかまっている。
5月11日に宇都宮で伝習隊や桑名藩ら旧幕府軍と新政府軍が衝突し(第一次宇都宮城の戦い)、
5月15日に再び激戦(第二次宇都宮城の戦い)を繰り広げるも旧幕府軍は撤退して敗北。
さらに5月24日には市川、鎌ヶ谷、船橋で榎本武揚ら旧幕府軍と新政府軍が衝突するが、市川船橋の戦いは西洋式の戦術と最新の武器を駆使した新政府軍が勝利。
そして、新政府軍は関東占領の総仕上げとなる上野戦争を1868年7月4日に開始する。
徳川慶喜が謹慎していた上野の寛永寺は旧幕府・彰義隊の本部があった。新政府軍は武力による彰義隊の壊滅を望んでいたが、無血開城の張本人である西郷は穏便に解決したいと提案する。
この背景には勝との信頼関係もあったのではないだろうか。しかし、新政府の幹部は西郷に対して「その考えはあまい」と指摘し、西郷は司令官の職を解かれ、長州藩の大村益次郎を新しい司令官に任命。
大村は、西郷と共に慎重な決断を促していた海江田信義も黙らせ、1868年6月20日に彰義隊に対して解散を通告し、武装解除を求め降伏を要求する。
もちろん、すんなりと彰義隊が応じるはずがない。そんなことは大村も分かっていただろう。早く戦って決着をつけるための挑発に過ぎなかったはずだ。
7月4日、要求に応じない彰義隊に大村が率いる新政府軍は攻撃を仕掛け、秘密兵器のアームストロング砲で集中的にダメージを与えた。降り注ぐ砲弾に対抗する術がない旧幕府軍は1日で敗北。
江戸は幕府の本拠地である。江戸城無血開城から宇都宮城の戦い、市川船橋の戦いを経て、上野戦争に勝利したことで完全に新政府軍が江戸を占拠した。
いざ、東北決戦
画像:函館市「五稜郭」(撮影:京浜にけ)
戊辰戦争のクライマックスとなる東北、そして函館での戦い。
これまでの戊辰戦争は新政府軍と旧幕府軍の戦いだが、東北戦争では新たに奥羽31藩と会庄同盟という新政府にも旧幕府にも属さない新たな派閥が誕生する。
また、旧幕府軍の榎本や新撰組の土方を中心とする榎本政権も発足される。そうした点にも注目しながら後編では東北戦争と函館戦争について確認していこう。
続きは、こちら↓
明治時代の幕開け!新政府軍と旧幕府軍が戦った「戊辰戦争」って何?(後編)
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