函館戦争~戊辰戦争の終結
画像:函館市「五稜郭」(撮影:京浜にけ)
新政府軍との戦いに敗れて北上していた旧幕府軍の大鳥圭介や土方歳三が率いる新選組は仙台に着き、榎本武揚が率いる海軍も江戸から仙台港に到着していた。
これら旧幕府軍は3000人の兵で蝦夷ヶ島(現在の北海道)に進軍し、12月4日に鷲ノ木に7隻の艦隊で上陸する。新政府軍は12月5日の深夜に榎本軍を攻撃するが、敗退して五稜郭を奪われる。
12月18日には土方が艦船からの砲撃と連携して松前城に攻撃を仕掛け、ここでも勝利。1869年1月22日、榎本は「占領した蝦夷地を正式に徳川家の領土にしたい」と嘆願書で申し出たが新政府軍は拒否する。
1月27日、旧幕府軍は榎本を総裁とした榎本政権を発足し、陸軍の責任者に大鳥圭介と補佐として土方歳三を任命、海軍の責任者に荒井郁之助が選ばれた。
そんな矢先、1869年3月のこと。旧幕府が発注していたアメリカのストーンウォール号(別名が甲鉄艦)が新政府軍に岩手県の宮古湾で引き渡される。
3月25日に榎本軍はストーンウォール号を奪おうと試みたが失敗。5月20日に新政府軍が乙部町に上陸し、28日には松前を制圧した。そして、函館政権の本部である箱館に進軍する。
6月20日、函館で新政府軍と旧幕府軍(函館政権)が戦闘に入り、土方歳三が五稜郭の外で銃撃されて戦死(五稜郭の戦い)。
新政府軍の総攻撃が始まり、榎本は6月27日に五稜郭を新政府軍に引き渡して降伏した。こうして函館戦争は終わり、このときをもって1年5ヶ月にわたり繰り広げられた戊辰戦争が終結した。
戊辰の意味
戊辰戦争は”戊辰の年”にちなんで名付けられた戦争である。戊辰の年とは、暦の「十干十二支」で数えられる年のこと。十干と十二支の2つから成り立つ「干支」の数え方である。
●十干
木・火・土・金・水の「五行」を兄(え)と弟(と)に分け、さらに、甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)の10種に分けたもの
●十二支
子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)の12種の干支
戊(ぼ)と辰(たつ)の年に起きた戦争というわけで、戊辰戦争と呼ばれている。ほかにも壬と申の年に起きた「壬申の乱」や、中国で辛と亥の年に起きた辛亥革命なども十干十二支から名付けられている。
<戊辰戦争に関わる主な出来事>
1867年11月9日・・・大政奉還
1868年1月3日・・・王政復古の大号令
1868年1月26日~30日・・・鳥羽伏見の戦い
1868年1月28日・・・明治天皇は小松宮彰に錦旗と節刀を与え征夷大将軍に任命
1868年3月29日・・・甲州勝沼の戦い
1868年5月3日・・・江戸無血開城
1868年5月11日~15日・・・宇都宮城の戦い
1868年5月24日・・・市川・船橋の戦い
1868年6月22日・・・東北の31藩が奥羽列藩同盟、会津藩と庄内藩は会庄同盟を締結
1868年7月4日・・・上野戦争
1868年8月21日~11月8日・・・東北戦争
1868年12月5日~1869年6月27日・・・箱館戦争(五稜郭の戦い)
1869年1月27日・・・旧幕府軍は榎本を総裁とした榎本政権を発足
1869年6月27日・・・戊辰戦争の終結
<新政府軍>
主要な藩・・・薩摩藩、長州藩、土佐藩
主な指揮官・・・小松宮彰(有栖川宮熾仁親王)、西郷隆盛(途中で解任)、大村益次郎、板垣退助など
画像:近代図鑑2-西郷隆盛之像(国立図書館)
<旧幕府軍>
主要な藩・・・奥羽越列藩同盟、榎本政権 、旧幕府陸軍、旧幕府海軍
主な指揮官・・・ 徳川慶喜、輪王寺宮能久親王 、松平容保、伊達慶邦、上杉斉憲、榎本武揚
画像:近代図鑑2-徳川慶喜之像(国立図書館)
1568年1月に始まった戊辰戦争は1年5ヶ月後の1569年6月に新政府軍の勝利で終わった。
以降、明治時代の幕開けとなり、西南戦争や日本国憲法の制定、日清戦争など歴史的な出来事へと続いていく。戊辰戦争は明治政府のその後を左右する重要な出来事になった。
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