上杉謙信は超やり手の商売人だった!150万石を築き上げた2つのビジネスとは?
画像:月岡芳年・画「上杉謙信」(東京都立図書館)
上杉謙信と聞いて思い浮かべるのは、馬にまたがり刀を振り下ろす勇ましい姿ではないでしょうか。事実、謙信は生涯で70回(諸説あり)の戦歴がありますが、ほとんどの合戦において陣頭で戦っていたようです。
そして、生涯で負けた戦は2度(70戦2敗)。残りは全て勝ち星(70戦68勝)を挙げているので、まさに"軍神"の名に恥じない戦のプロフェショナルだったことが分かります。
では、謙信は武力だけが取り柄の「合戦バカだったのか?」といえば、そうではありません。謙信の死後、春日山城の蔵から約2万7千両もの大金が見つかっており、それらの遺産は謙信が"ビジネス"によって生み出した利益でした。
つまり、武力だけでなく、商売の才覚も持ち合わせていたわけです。謙信が大きな富を得たビジネスとは、どのような事業だったのでしょうか。越後の龍と恐れられた謙信の、意外な一面が見えてきますよ。
米沢が誇る越後の龍
画像:国宝「上杉本洛中洛外図屏風」(東京国立博物館)
山形県米沢市の松が岬公園から徒歩15分の上杉家御廟所には上杉謙信をはじめ、初代・米沢藩主の上杉景勝から11代目の斉定まで歴代藩主の墓が保管されています。
昭和59年に国の指定史跡に登録され、敷地にある樹齢400年を超える杉の木が時の流れを物語っています。また、松が岬公園の上杉博物館には、織田信長が謙信に贈ったとされる「上杉本洛中洛外図屏風」も展示されていますね。
現在でも米沢が誇る英雄として親しまれている謙信ですが、類い稀なる戦のセンスのみならず商売人としての才覚もあったようで、約2万7千両もの遺産をビジネスによって生み出しているんです。
戦国中期~後期の金1両の価値を10万円※とし、単純に計算しただけでも27億円相当に値する金額で、さらに、現代より何十倍もの価値があったことを考えると莫大な遺産であったことがわかる。 金1両は時期や情勢によって相場が変動しており、1両あたり5万円の時もあれば30万円の時もあるため、今回は戦国中期前後~後期の相場を目安にしています。 |
また、組織の運営費(家臣や兵の雇用や必要経費)などもその収益によって賄われていた部分が大きく、それらの運営費を除いて積み立てられた遺産ですから、よほど大きな収益を上げていたことが分かります。
そのビジネスが、地域産業と港の運営でした。越後産カラムシ(青苧)と越後上布の専売、さらに港(直江津と柏崎)から得る交通税によって大きな財源を確保することに成功しています。
謙信が取り組んだ地域産業
画像:カラムシ
資金がなければ戦もできませんし、収入源がなければ家臣たちを養うこともできませんでした。山形は米の産地だから米を売って稼いでいた、佐渡の金山と銀山が収入源になっていた、などの意見もありますが答えはNOです。
まず、戦国時代の山形県は、言うほど米の収穫量がありません。さらに、佐渡の金山と銀山が上杉家の所有になるのは上杉家2代目(初代・米沢藩主)の景勝になってからです。
当時、採掘されていた金の鉱山は、西見川金山と高根、金山で、銀は上田銀山と鶴子銀山。では、謙信は、どのようにして軍資金や組織の運営費を確保していたのでしょうか。
当時の山形県は米や作物を育てる田畑より、麻布(麻糸で織った布)の原料になる「カラムシ(イラクサ科の植物)」を栽培する畑のほうが圧倒的に多かったことが史料で確認できます。
麻布は当時の庶民の着物の原料になっていましたが、越後のカラムシは上質だったため、越後の麻布※で織った布は「越後上布」と呼ばれ、木綿が一般流通していない当時において貴重なものでした。
※越後上布とは、まず越後産のカラムシの表皮から青苧(あおそ)という繊維を採り、その繊維で麻糸を生成し、越後産カラムシが原料の麻糸で織った麻布のことを指す