江戸時代と共に生きた三井財閥
画像:越後屋の看板レプリカ
そもそも三井組は呉服店を生業とする三井越後屋で、江戸、京都、大阪で商売していた。様々なアイデアを駆使しながらライバルに差をつけ、着実に売上を伸ばす。
その副業として明治以降に始めたのが両替商であった。1684年から1687年にかけて三井越後屋は呉服と両替の両分野で幕府と結び付いていく。
1687年、徳川幕府の重職に就いていた牧野成貞(関宿藩主)より声が掛かり、御納戸(江戸城の大奥にあった部屋)へ呉服を納品する役目を申し伝えられる。
こうして、幕府御用達の呉服屋として三井越後屋の地位は確立された。それから3年後の1690年、幕府が「大阪御金蔵の銀御為替(公金為替)を引き受けたい者は名乗り出よ」と応募をかける。
この募集に対して12人が名乗り出て、1691年に三井越後屋からは2名が採用された。
大阪御金蔵の銀御為替とは、大阪にある幕府の金蔵(金庫)に集まった何万両もの金貨や銀貨を預かり、その現金を60日後までに江戸の御金奉行(幕府の経理)に届ける(送金する)役目である。
それまでは幕府の担当が東海道を経由して江戸に届けていたが、現金の輸送は非常にリスクが高く、コストも高いので人員的にも金銭的にも浪費が伴う業務だった。
「公金為替」は大阪の金蔵で金銀を渡されたら60日後に江戸の金蔵に同額の金銀を届けるシステムだが、実質的には「無利息で幕府が両替商に貸し付けていた」という側面があるわけだ。
この預かった金銀(公金)の運用を繰り返して三井高利は莫大な利益を得た。
やがて上納期限が60日から90日まで伸ばされ、本格的に金融業に乗り出した三井は両替商を三井越後屋から独立させ、江戸時代に急成長を遂げた。
1694年に三井の元祖である三井高利が死去するが、長男の高平を中心に結束し、一族で三井を盛り上げていくために 1710年、三井家大元方(グループの業務や経営を統括する本部)を設立。
しかし、江戸時代の後期に入ると、1830年~1844年には米不足(天保の大飢饉)が江戸や大阪を襲い、それに伴う大塩平八郎の乱など次第に情勢が悪化していく。
さらに、1853年、浦賀のペリー(黒船)来航をきっかけに横浜港が開港。開国(1854年3月31日の日米和親条約)によりアメリカとの貿易が始まったことで国内の織物業に多大な打撃を与える。
生糸の価格は高騰し、三井越後屋の経営は圧迫された。また、この頃は幕府への反発運動も高まっており、三井越後屋の拠点の一つである京都は荒れていた。
幕末の動乱は三井の存続を揺るがしかねない大きな不安要素だったのだ。
明治維新、三井財閥と新政府軍とのつながり
画像:近代図鑑2-西郷隆盛之像(国立図書館)
1867年11月9日、大政奉還により徳川幕府は政権を天皇へ返すことで討幕派の薩長と距離を置いた。しかし、大久保利通や西郷隆盛、岩倉具視は武力をもって徳川幕府の壊滅を実行する。
1868年1月に始まった戊辰戦争で徳川家は壊滅したが、1688年以降から三井は幕府と密接な関係を築いてきており、実は薩摩藩とも琉球通宝の両替を通じて強いつながりをもっていた。
さて、微妙な立場にいる三井。旧幕府軍(徳川家)と新政府軍(薩摩藩や長州藩)どちらに”つく”べきか戦局を冷静に見極める必要があり、その判断に不可欠なものが情報だった。
当時、情報収集に励んでいたのが三井の跡取り候補・三井高朗。鳥羽伏見の戦いが開戦する直前に京都に入った薩摩軍は資金が不足し、薩摩藩は三井に1000両の融資を申し出る。
高朗は融資を了承し、三井の両替屋から現金を集めて薩摩藩に貸し付けた。資金の受け渡しが行われたのは、まさに鳥羽伏見の戦いが始まる前夜だったそうだ。
戊辰戦争という時代の行く末を左右する戦いにも関与していた三井だが、融資先の薩摩藩(新政府軍)が勝利することを見越したうえでの融資だったとすれば、やはり生粋の商売人だと言えるだろう。
それ以降も三井家は三井越後屋を通して財政基盤が不安定な東征軍(新政府軍)の軍資金を融通しており、戊辰戦争に大きく貢献したことは言うまでもない。
明治維新において三井財閥が成長できた理由の一つに、「新政府との関与」という”つながり”も影響していただろう。金融業としての三井は成功の道を辿るが、呉服店の調子は雲行きが怪しくなっていく。
明治以降に和服から洋服へと文化が流れ、1872年には三井家大元方から離脱して三越として独立。その後、日本初の百貨店として復活し、誰もが知る「三越百貨店」が誕生した。
後編は、こちら↓
日本初の銀行を創設した「三井財閥」の歴史を辿る(後編)
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