宮本武蔵は本当に「関ケ原の合戦」と「大坂夏の陣」で戦ったのか?
画像:歌川国芳・画「報讐忠孝伝宮本武蔵」(国立国会図書館)
剣豪で知られる宮本武蔵ですが、マンガや時代劇の影響なのか様々な"説"が飛び交っている人物の一人ですね。
たとえば関ケ原の戦いで西軍に加勢して失望した武蔵は諸国を放浪したとか、大坂夏の陣で豊臣軍に加勢したけど負けて武者修行の旅に出たとか、ぶっ飛んだ創作が多いようです。
では、実際のところ、武蔵は関ケ原の戦いや大坂夏の陣に参戦したのでしょうか。
武蔵は関ケ原の合戦に参戦したのか?
画像:関ケ原古戦場跡(岐阜県不破郡関ヶ原町)
武蔵は1584年に播磨(兵庫県揖保郡太子町宮本)に生まれ、1645年に肥後(熊本県)で62年の生涯に幕を閉じました。武蔵は武家に生まれ、武蔵の父は龍野城主・赤松政秀に仕えた武士だったようです。
この頃、須磨は中国地方の毛利輝元と織田信長の境界にあり、播磨の領主は生き残りを賭けて抵抗していました。しかし、1577年に信長の家臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が播磨に侵攻。
1580年に秀吉軍が完勝し、服従しなかった赤松もろとも家臣たちは全滅。その後、須磨の新しい領主になったのが黒田官兵衛です。この須磨が、官兵衛が18万石の大名になるスタート地点でした。
武蔵の養父として知られる十手の達人・新免無二(しんめんむに)は官兵衛の弟・利高に加勢していた剣豪。しかし、武蔵が16歳のときに新免無二が他界し、武蔵は跡を継ぎ兵法者として活動を始めます。
そんな矢先、またもや戦国を揺るがす大きな事件が勃発。石田三成と徳川家康が抗争状態に入り、1600年「関ケ原の戦い」が開戦されるのです。このとき武蔵は17歳。
さて、「武蔵は関ケ原の合戦に参戦したか」というと、残念ながら今のところ明確な史料が残っておらず、確証を得る答えはありません。つまり、「参戦したかは謎」というのが現段階の答えです。
丹治峯均筆記によると黒田家の一員として武蔵も戦ったという記述がありますが、一方で、兵法先師伝記には武蔵は関ケ原の合戦に参戦していないと書かれており、確かな決め手がないわけです。
また、武蔵が宇喜多秀家に加勢したという説もありますが、これについては根拠のないフィクションですね。
参考文献:宮本武蔵・著「兵法書(五輪書)」
参考文献:平野庸脩・著「播磨鑑」(播磨全域の地理に関する史書)
参考史跡:武蔵記念碑・小倉碑文「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士碑」
参考文献:立花峯均・著「丹治峯均筆記」
参考文献:丹羽信英・著「兵法先師伝記」
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