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宮本武蔵は本当に「関ケ原の合戦」と「大坂夏の陣」で戦ったのか?

武蔵は大坂夏の陣に参戦したのか?


画像:真田軍の合戦風景「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣)

関ケ原の合戦が終わった15年後、またもや大事件が勃発します。家康が豊臣家を滅ぼした「大坂夏の陣」です。

この合戦に武蔵は参加したかというと、備後福山藩の史料「大坂御陳御人数附覚」「水野勝成が率いる部隊」の一員として名前が記録されているのです。勝成の息子・勝俊の護衛についていたとか。

このとき武蔵は30代半ば前。水野隊は大坂夏の陣で最も激しい合戦を繰り広げた部隊の一つであり、勝成と勝俊も前線で戦い、後藤又兵衛、薄田兼相、真田幸村、明石全登が率いる部隊を打ち破っています。

勝成と勝俊が前線で戦っていることから、護衛についていた武蔵も必然的に前線で戦っていたということになりますね。

参考文献:備後福山藩史料「大坂御陳御人数附覚」
参考文献:水野勝成・著「水野日向守覚書」

ちなみに、この水野勝利という男、相当の"傾奇者"なんですよ。


画像:正子公也武将画展「水野勝成の等身大屏風」(刈谷市総合文化センター)

勝成は家康と親戚の間柄。さぞ育ちが良いと思いきや、10代で長槍を振り回し、合戦で暴れまくり武功を挙げて信長から称えられるも、問題を起こして親父に勘当されてしまい放浪の旅に・・・。

そのとき親父が他の大名や武将たちに「うちの息子を雇ったり世話したりしないでね」と奉公講※を出したものだから行く当てがなく身分を偽って各地を転々としながら合戦に参加していたんです。

豊臣秀吉の合戦(四国征伐)に潜り込んだり小西行長や立花宗茂、さらに黒田官兵衛や佐々成政のもとを転々としながら最終的には家康が仲介してくれて親父と和解。

※奉公講・・・「破門」と同じで、追放された者(浪人など)を大名や武将に知らせるための回状(書状)。

関ケ原の合戦では「大垣城の戦い」に参陣し、やがて来る大坂夏の陣で武蔵と共に戦うわけです。大坂夏の陣から数年後、武蔵は勝成の家臣・中川志摩之助の三男・三木之助を養子にしています。

そして、姫路の本多家に仕えさせました。このとき、武蔵は姫路に宮本家を創設。つまり、宮本武蔵となった瞬間ですね。もちろん、故郷の宮本村にちなんで付けられた苗字。

三木之助は本多忠政の養子・忠刻の側近として働き、武蔵の子という理由から700石を拝領しています。しかし、忠刻が病死すると、そのあとを追って三木之助(23歳)も7日後に殉死(主君を追って自殺)してしまうのです。

宮本家は三木之助の弟・九郎太夫が相続し、名を二代目・三木之助に改めました。のちに武蔵は伊織も養子に迎え、1645年6月13日に他界。

剣の達人としてだけではなく美術の腕も達者だった武蔵は、生前に描いた「鵜図」「枯木鳴鵙図」「紅梅鳩図」が国の重要文化財に指定されています。

そのほか、「正面達磨図」「盧葉達磨図」「盧雁図屏風」「野馬図」などの水墨画も各地の美術館に保管されているんですよ。 意外と知られていないかもしれませんが、宮本武蔵は文武両道の芸術家な一面もあったんです。

参考文献:宮本小兵衛・著「宮本先祖」
参考文献:大沢惟貞・編「吉備温故秘録」

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