加藤嘉明
画像:加藤嘉明の肖像(滋賀県藤栄神社)
嘉明という名前は晩年の改名で、生涯の大半が繁勝の名だったことは、あまり知られていまいと思います。もともと加藤家は家康に仕えていましたが、三河一向一揆で教明(嘉明の父)が家康と敵対し敗れると、やがて秀吉に仕えました。
嘉明は福島正則や加藤清正らと秀吉のもとで小姓(世話係)として育ち、のちに「賤ヶ岳の戦い」で武功を挙げ、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられる武将となります。
嘉明の兵力は主に水軍で、1592年の文禄の役(朝鮮出兵)で李舜臣が率いる朝鮮水軍と戦って功績をおさめ、伊予6万石を拝領。慶長の役(2度目の朝鮮出兵)では元均が率いる朝鮮水軍を壊滅させ、窮地の加藤清正に援軍として駆け付けるなどの軍功で10万石に昇格しました。
関ケ原の戦いにおける岐阜城攻めでは「今すぐに攻め込もうぜ」と主張する井伊直政と慎重派の嘉明とで意見がぶつかり、口論だけでは済まず斬り合い寸前になりますが、嘉明が一歩引いて直政に従い、一気に城を陥落させたことから「沈勇の士」と称えられています。
大坂冬の陣では豊臣恩顧の武将という理由で警戒され、江戸城の留守番をする言いつけられますが、翌年の大坂夏の陣には徳川秀忠(のちの2代目徳川将軍)の援軍として参陣。
1619年に福島正則が改易(お家取り潰し)となると広島城の城主に。1627年には蒲生家に代わって嘉明が会津を任せられ、40万石の大名へと大出世しました。嘉明が他界したあとは長男の明成が家督を継承。
しかし、家老の堀主水と意見がぶつかって醜態をさらしたため、幕府から明成は"引退"を迫られて加藤家は2万石に降格しています。やっぱり先代が優秀過ぎると2代目の栄華は短命なんですね・・・。
さて、嘉明といえば冷静沈着で団結力を重んじた武将ですが、そんな彼の人間性を表す逸話も語り継がれています。
たとえば、加藤家の小姓が囲炉裏の火に火箸を当てて遊んでいると、嘉明が来たので小姓は慌てて火鉢を放ってしまい、それを嘉明は手に取ってしまい大火傷を負いましたが、顔色ひとつ変えず火箸を元に戻したそうです。
また、近習(秘書)が嘉明の大切な皿10枚のうち1枚を誤って割ってしまったとき、嘉明は叱りつけることなく残りの9枚を自分で叩き割り、「1枚欠けると誰の仕業だと犯人探しが始まるだろ。家人(家臣や使用人など)は私の手足と同じであり、どんなに貴重な一品だろうと引き換えにはできない」と言ったそうです。
嘉明は日頃から「真の勇士とは責任感が強く律儀な人間である」と言い聞かせ、個人プレイよりも団結を重んじていました。関ヶ原の合戦で武功を挙げた家臣・塙団右衛門に対し誉めるどころか嘉明は激怒しますが、その理由は仲間の鉄砲隊を置き去りにしたから。
つまり、どんなに秀逸でも自分のことしか考えていない奴は”無能”というわけです。
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実は"猛将"ばかりじゃない?「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれた武将たち(中編)
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