糟屋武則
画像:落合芳幾・画「糟屋内膳正武則」(東京都立図書館)
武則の母は黒田官兵衛の主君(秀吉に仕える前の主君)・小寺政職の妹で、初めは志村家に嫁ぎましたが離縁して糟屋家に嫁いで糟屋朝正(武則の兄)を産み、その後、志村家に戻ってきて武則を出産。
志村某(武則の父)が他界すると糟屋家の当主となっていた糟屋朝正に武則を託しました。
糟屋家は秀吉と敵対していましたが、黒田官兵衛の説得により臣従することになります。それに伴い、武則は秀吉の小姓頭(世話役の責任者)として秀吉から可愛がられたそうです。
1579年には兄の朝正が三木合戦(三木城の戦い)で討ち死にし、武則が家督を継ぎました。本能寺の変が起こった直後の中国大返しで武則は秀吉の護衛を務め、賤ヶ岳の戦いでは武功を挙げ「賤ヶ岳の七本槍」に。
小牧・長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐にも参陣し、秀吉の天下取りを支えた武将の一人です。合戦で貢献する一方で、武則は政治でも手腕を発揮して奉行や代官も務めています。
朝鮮出兵では軍目付を任せられ、織田秀信を補佐。そして、1600年。秀吉が他界すると家康の天下取りが始まり、関ケ原の戦いが勃発します。賤ヶ岳の七本槍の中で西軍として戦ったのは武則だけ。
西軍が負けると隠居して生活するも1601年に他界。家を継ぐはずだった息子も直ぐに他界したため、糟屋家は断絶したというのが通説です。しかし、武則の死にはいくつか説があり、定かではありません。
糟屋家は関ヶ原以降も存続して幕府に仕えたという説や、朝鮮出兵から帰国して直ぐに毒殺されたという説や、大坂夏の陣で戦死したなど、謎が残されている人物なんです。
- 武則の子である十左衛門は前田利長に500石で召し抱えられた。
- 武則の弟・助兵衛の子、加須屋武成は会津藩主の保科正之に召し抱えられ、会津藩の弓術日置流道雪派の開祖となって「天下の三射人」の一人に数えられた。
- 武則の弟である武政は大坂夏の陣の後、加古川市米田町に戻ってきて農民になったという。
参照元:多田暢久・著 「賤ヶ岳七本槍の加古川城主・加須屋武則」「家康と播磨の藩主」など
ちなみに、滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館には武則が使用していたと言われる「銘助光の大身槍(平三角槍)」が所蔵されており、松平家から糟屋家に嫁いだ娘が糟屋家が断絶するときに持ち帰ったものと言われています。
平野長泰
画像:落合芳幾・画「平野権平長康」(東京都立図書館)
若くして秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは加藤清正や福島正則らと同様に「賤ヶ岳七本槍」に数えられた武将。彼らのように将来も有望されていましたが、実際のところ、その後の長泰は清正や正則のように表立った話は出てきません。
賤ケ岳の合戦後、長泰は3000石を拝領し、小牧長久手の戦い後は大和国(奈良)の七ヶ村(旧・十一郡にあった村)を拝領して5000石に昇格。1598年に従五位下遠江守に叙任して、豊臣姓を賜っています。
つまり、平野長泰から豊臣長泰になったわけです。長泰の正室は土方雄久(2万4千国)の娘で、息子は長勝。順風満帆に思えますが、この頃には加藤嘉明は伊予10万石に昇格し、ほかの七本槍たちも出世していました。
秀吉の死後は秀頼(豊臣家の2代目)に仕えますが、関ケ原の戦いが勃発すると東軍に加勢。徳川秀忠(のちの徳川将軍2代目)の援軍として上田城の戦いに参戦。
しかし、秀忠が上田での合戦に手こずり関ヶ原の本戦に大遅刻。もちろん、長泰も遅れるはめに・・・。その結果、武功を挙げることができませんでした。
大坂の陣が勃発すると、長泰は秀頼に加勢しようと考えましたが、それを察知した家康は長泰に江戸城の留守番を命じます。そんなこんなで活躍の場を逃してきた長泰は、賤ヶ岳七本槍の中で唯一大名になれなかった武将なんですよ。
とはいえ、良いこともあります。大名にはなれなかったものの子孫は明治時代まで続き、明治新政府から大和田原本藩を任せられ平野家は初代藩主になっています。これは、賤ヶ岳七本槍の中で平野家だけ。長泰の苦労も無駄ではなかったということですよ!
賤ヶ岳七本槍
画像:賤ヶ岳合戦図屏風(横浜市馬の博物館)
賤ヶ岳七本槍は賤ケ岳の戦いで武功を挙げた7人を称えて名付けられた名称ですが、ほかにも桜井佐吉や石川兵助一光、石田三成や大谷吉継、一柳直盛など秀吉の部下14名の若手武将が最前線で武功を挙げたと一柳家記(著・渡邊勘兵衞)に記録されています。
七本槍は豊臣政権で大きな勢力をもちます、福島正則は「脇坂などと同じ立場で扱われるのは心外だ」と言ったり、加藤清正も「七本槍」の話が出ると嫌がったそうです。おそらく、「そいつらと俺を一緒にするな」って意味だったのでしょうか。
ちなみに、「七本槍」は賤ケ岳七本槍だけではないんですよ。
小豆坂七本槍(織田家)や蟹江七本槍(松平家)、上田七本槍(徳川家)や高鍋七本槍(大垣城の戦いで活躍した7人の武将)など他にも七本槍はいるんです。
また、「日本槍柱七本(日本七槍)」と言って、秀吉が功績を認めた槍の達人7人を総合した七本槍もあるんですねね。つまり、日本七槍は、戦国時代において槍働きを評価された武将の"選抜メンバー"ってわけです。
今回は賤ケ岳七本槍の武将たちを紹介しましたが、近いうちに日本七槍のメンバーについても紹介しようか検討中。その際は、もし興味があったら、また読んでくださいね。
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