日本の年号(元号)は過去に251回も変更された?年号を決めるときのルールと法律
画像:元号「平成」の決定を発表する小渕官房長官(時事通信より)
これまで日本で使用された元号(げんごう)は歴代で「231個」。歴代の天皇は現在125代目なので、およそ2倍の元号が存在していたことになる。
天皇の交代に合わせて元号も変えるが、それは明治からのことで昔は頻繁に変わっていたということだ。
この元号に関する記録は様々で、また由来や期限など諸説あるため、今回はいくつかの記録を参考にしながら元号にまつわる話を紹介したいと思う。
元号のルーツ
画像:大化の改新「中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を討つ図」(国立図書館)
日本で初めて元号が登場するのが西暦645年から始まる「大化」である。646年の「大化の改新」は教科書でもおなじみであるし、聞き覚えがある年号ではないだろうか。
大化の改新は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじと)中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺したことで有名な出来事。
元号は115年頃から中国が用いており、それを日本が取り入れたのがルーツとされている。
そのため、元号の由来は中国の古典を参考にしており、大化の由来も中国の歴史書「書経」、「漢書」、「宋書」に書かれている言葉から使われているそうだ。
ちなみに、「平成」も歴史書に記されている「史記」、「書経」の中から選んで名付けられた。
元号を付ける理由としては、その時代に名前を付ける行為は「空間と共に時間も支配する」という思想が由来となっている。つまり、国のトップが変われば、元号が変わるのも自然の流れというわけだ。
元号は日本特有の文化
1331年から1392年の頃、鎌倉幕府の滅亡と朝廷の分裂により起こった「南北朝時代」。これにより、天皇が一時的に2人いる状態となり、元号が2つ存在する時代もあった。
史書によると南朝(後醍醐天皇に属する朝廷)を正統としているため、「大化」から「平成」までで日本には「231」の元号が使われていたということになる。
上記のように曖昧な元号を合わせれば合計で251。ちなみに、日本が元号の参考にしていた中国は、1911年に「清」が滅亡すると元号制度を廃止した。
もう、おわかりだろうが、現在、「元号」という制度を用いているのは日本だけなのだ。言われてみれば、日本以外の国では西暦しか使われていない。元号は日本特有の文化と言える。
天皇の交代に合わせて元号を変えるようになったのは明治元年(1868年)に始まった制度である。この制度を「一世一元の詔(みことのり)」と言い、な現在もなお、続いている。
明治時代までの元号
画像:1999年の毎日新聞「明治天皇」
とにかく明治時代以前の元号は頻繁に変えられていた。
天皇が変わるとき当然だが、めでたい出来事が起きたとき、不吉なことが起きたとき、地震や火災などの災害後や疫病が起きたときなど、祝賀や厄除けの意味があったようだ。
何か起こるたびに元号を変えていたわけだが、その結果、749年には3つの元号が同時に存在していたそうだ。そんなこんなんで、ようやく1979年に元号に関するルールを「元号法」で定めた。
この法律ができたのは、初代の元号「大化」が誕生した645年から1334年後。しかも、その内容は日本で定められている法律の中で最も短い。
昭和五十四年法律第四十三号
元号法 1 元号は、政令で定める。 2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。一世一元の制 附 則 1 この法律は、公布の日から施行する。 2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。 |
これは一部を抜粋したわけではなく、全文。また、法律では定められていないが、新しい元号を定めるときの基準または条件なども設けられている。
- 縁起がよい、または良い意味をもつもの
- 漢字2文字
- 読みやすく、書きやすい、覚えやすい
- 元号、おくり名で使われていないもの。
- 俗用されていない
過去に最も字数が多かった元号が749年~770年に使われていた4文字。
- 天平感宝 749年だけ使用
- 天平勝宝 749年~757年の8年間
- 天平宝字 757年~765年の8年間
- 天平神護 765年~767年の2年間
- 神護景雲 767年~770年の3年間
普段、何気なく使っている元号も、こうやって見ると歴史が深いことに気づく。元号(年号)は日本特有の文化なので、ぜひ覚えておきたいところだ。
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